古代から中世の和太鼓史:芸能の始まりと発展の歴史

古代から中世の和太鼓史:芸能の始まりと発展の歴史

和太鼓は日本人にとって最もポピュラーで有名な伝統楽器でありながら、和太鼓そのものの歴史や文化的背景を知っている人は多くはありません。

本記事では、最も有名であり最も謎に満ちた楽器「和太鼓」が日本に登場した古代・中世史について紹介します。

縄文・弥生時代の太鼓

岩戸神楽ノ起顕(三代豊国): 三重県総合博物館所蔵

日本の歴史のにおいて太鼓がいつから存在していたのかは正確な時期は明らかになっていません。しかし、遺跡から出土された土偶から太鼓が登場したのは「縄文時代」ではないかと推測されています。

人類史という視点でみても「太鼓」という楽器の歴史は古く、最古にして最初の楽器は「打楽器」であっただろうと言われています。日本もまた例外ではなく、打楽器が「音」を人為的に出す道具として最初に生み出されただろうと思われます。。

打楽器そのものの発生期限に関しては諸説ありますが、声や手足、体を使い音を出していた人類の祖先は、やがて木の棒、石など自然の中にあるものを叩いた時に鳴る音に注目しました。そこから長い時間をかけて打楽器は「太鼓」へと発展していきます。。

自然の音が溢れていた時代の中で自分たちの意志で音を出すことができる「打楽器」は、様々な用途で使用されてきました。そして、打楽器に続いて張った絃を震わせる弦楽器や、動物の骨に穴を開けて息を吹いて音を鳴らす笛など様々な楽器を生み出していくことになります。こうして自然の音が支配する世界に人類が自分たちの意志で音を出すことができる楽器が生まれたのです。

縄文時代の遺跡から石笛土笛土鈴のような土器が出土しています。これは同時代には人為的に音を鳴らせる楽器が存在していたことを示しています。また、これらの土器は明らかに意図的に音を鳴らすために作られているため、狩猟情報伝達の手段として「音」を使用していたと思われます。

古代の人々にとって「自然」は生きていく中で必要不可欠な存在でありながら、得体のしれないものとして崇拝されながらも畏れられていました。その自然への畏怖の念はやがて「原始宗教」へと発展していきます。

古代の日本でも自然崇拝によるアニミズム信仰が発生しました。神に祈りを捧げるは原始宗教の発生とともに神事として重要視され、日本文化として発展の道を歩み始めました。

祭祀の中で楽器は使用されていたと思われ、現在まで続く儀礼の起こりは遥かいにしえの時代である縄文時代までさかのぼることができると思われます。

縄文時代には日本人は竪穴式住居を作り、集落を気づいていました。集落の中で行われる狩猟に関する祭や疫病に対する祈りの儀式は宗教として人々の生活の中心になっていきます。そして、集落が集まり村となり街となり国と鳴る頃には、日本固有の宗教である「神道」が発生し人々の生活の中心となっていたと思われます。神道で行われる神事の中で歌舞は行われ、その中で楽器は使用されていたと思われます。

実際に。長野県茅野市にある尖石遺跡では、皮を張って太鼓として使用されていたのではないかと推定される土器が出土されました。神事では神官が神と交信するため一種のトランス状態になる儀礼が行われていたと考えられます。その際に行われた「舞」を囃すための音の中に太鼓の音が存在していたのではないかと思われます。

様々な遺跡から縄文時代から弥生時代にかけての人々の生活を想像させる土器が出土していますが、「証拠としての太鼓」は土器として出土されていません。そのため日本史の中でも太鼓がいつから存在し、どのような使われ方をしていたのかは推測の域からは出ていないのが現状です。

しかし、少なくとも飛鳥時代には確実に太鼓が存在していたことを示す史料は見つかっています。

それが、群馬県佐波郡境町の天神山古墳から出土された「太鼓を打つ人物埴輪」です。この埴輪の存在により飛鳥時代(3世紀末~6世紀)には日本に太鼓が存在していたことがわかっています。

太鼓を打つ人物埴輪: 東京都国立博物館所蔵

埴輪は太鼓を担いでおり、真ん中がふっくらとした筒状の太鼓をバチで叩いています。紐状の後がついていることから「桶太鼓」であったのではないかと言われています。

この埴輪の発見により、少なくとも飛鳥時代には桶太鼓のような太鼓が存在しており、神事や催事、信仰への捧げものとして太鼓を使われていたと想定されます。

同時期の埴輪として「琴を引く男性埴輪」も出土しています。日本神話でも登場する「琴」は確認される中で日本最古の和楽器ではないかとも言われています。

神話の世界を描いた日本書紀や古事記に日本の芸能の始まりにも関連する伝説ががあります。

「槽伏(うけふ)せて踏み轟こし、神懸かりして胸乳かきいで裳緒(もひも)を陰(ほと=女陰)に押し垂れき。」

出典:古事記

神話では、須佐之男のいたずらがひどく大変怒った天照大神は天岩戸に隠れてしまいます。太陽神である天照大神が隠れたことで太陽が消えてしまいます。太陽は命の恵みであるため多くの死活問題が起こりました。

天の岩戸に隠れた天照大神を外に連れ出すため、彼女の興味を惹くために大宴会を開きます。宴会の中で「天鈿女命(アメノウズメノミコト)」が「うつぶせにした槽(うけ 特殊な桶)の上に乗り踊った」際に天照大神は外で起こっている宴会に興味を持ち外に出たと言います。

天鈿女命は日本最古の踊り子であり、天鈿女命が舞った舞踊は日本最古の芸能と言われています。舞踊の中で天鈿女命が踏み鳴らした槽が太鼓の役割を果たしたため確認される最古の太鼓とも言えます。

古事記の記載にある槽にあるように桶胴太鼓のような構造の太鼓が当時の主流であったと思われます。これは太鼓を打つ人物埴輪の持つ太鼓の特徴とも近いため、和太鼓の歴史を考える中で重要な要素となります。

現在、天岩戸伝説での功績から天鈿女命は芸能の女神として崇められています。

当時の日本人の文化を知る上でもう一つ重要な史料が弥生時代末期から古墳時代初頭に記されました。それは中国の歴史書「三国志」の中の「魏書」として当時の日本が描かれた通称「魏志倭人伝」です。

魏志倭人伝には日本の文化が多く残されていますが、その中に音楽観に関する記載があります。

其死、有棺無槨、封土作冢。始死停喪十餘曰。當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飲酒。已葬、擧家詣水中澡浴、以如練沐

訳:人が死ぬと、棺はあるが槨のない土で封じた塚を作る。死してから10日あまりもがり(喪)し、その間は肉を食さない。喪主は哭泣し、他の人々は飲酒して歌舞する。埋葬が終わると家の者は水に入り体を清める、これは練沐の如し。

出典:魏志倭人伝

弥生時代の日本人は儀礼の際に「歌」「舞」を行う文化が成立していたことが魏志倭人伝から分かります。その中に記載はありませんが、同時代の埴輪である「太鼓を打つ人物埴輪」の存在から歌舞の中で太鼓が使われていた可能性が考えられます。

大陸文化の渡来と芸能の起こり

月次風俗図屏風:東京都国立博物館所蔵

飛鳥時代に日本に大陸から数多くの文化が渡来しました。結果として日本は大陸文化の影響を大きく受け、今まで培ってきた固有の文化に大陸文化が混ざりあうことで、急速に日本文化は発展していきます。

それは現代まで続く日本芸能の発生にも関連します。特にこの時代に渡来した「伎楽」「散楽」は数多くの芸能を生み出すきっかけとなりました。

散楽が渡来する以前から日本には地域ごとに神道を中心とする古代祭祀舞踊古代原始歌謡古代郷土芸能自然崇拝アニミズムの儀礼がありました。日本固有の芸能は大陸から渡来した文化の影響を受けたことで様々な形に変化していきます。平安時代に様式が確立したと言われている「神楽」や五穀豊穣の神への奉納の舞である「田遊び」といった芸能が生まれました。

雅楽」の1ジャンルである「国風歌舞(くにぶりのうたまい)」は大陸文化の渡来以前に日本で演じられていた歌舞から生まれました。稲作文化であった弥生時代には豊作を祝う神事が多く行われていたと考えられます。国風歌舞は日本固有の芸能を色濃く受け継いでますが、皇族に纏わる催事でのみ演じられる傾向にあるため現代においても中々お目にかかることはできません。

特に御神楽と呼ばれる神楽は非公開のまま現代へ継続されているためその内容は現在でも明らかになっていません。日本固有の楽器である「和琴」「笏拍子」「神楽笛」が使用されているというウワサがあります。

和太鼓の発展において伎楽・散楽で使われていた「腰鼓」は影響が大きく、後の締太鼓や鼓へと改良されて浸透していきます。また、雅楽で使われる打物である「羯鼓」「楽太鼓」は指揮者としての役割や節の変わり目での重要な音として使用されました。

また、現存する史料はありませんが、当時の大陸文化の時代背景から長胴太鼓(宮太鼓)の元となるくり抜き胴の太鼓が生まれたと言われています。

奈良時代に書かれた「軍防令」には「各軍団ごとに角笛とともに鼓(太鼓)2面を置くと規定され、また即位式の式官の陣の参集の合図に用いられた。」とあります。「陣太鼓」で使用される太鼓は少なくとも奈良時代には存在していました。また、大陸から渡来した仏教でも太鼓は法具として使用されており、東大寺大仏開眼供養会では太鼓の音とともに声明が行われたと記録があります。

長胴太鼓がいつの時代から使用されていたのか正確な時期は分かりませんが、前後時代に残された文献から大陸文化の渡来とともに日本に定着したと考えられます。

飛鳥時代・奈良時代・平安時代にかけて数多くの芸能が生まれたことが確認されます。特に後の時代に大きな影響を与えた芸能として「伎楽」「散楽」「雅楽」「田楽」「神楽」が挙げられます。

■伎楽

伎楽は日本に渡来した芸能の中でも最古の部類に入ると言われています。飛鳥時代には百済から渡来し、日本で演じられていました。

仮面を被り音楽に合わせて踊る舞踊で、中世において繁栄を迎えました。伎楽は曲芸の要素や滑稽さがある芸能のため後の「太神楽」や「狂言」にも少なからず影響を与えています。

伎楽では「腰太鼓」という太鼓を使用しました。腰太鼓は「締太鼓」の先祖にあたる楽器です。後の時代で発展する猿楽や神楽で改良が加えられ締太鼓となりました。

伎楽は奈良時代まで盛んに演じられたが、その後衰退しています。

■散楽

散楽奈良時代に渡来したと言われている芸能で、「一定の決まりのない不正規な音楽」を語源の由来とした雅楽の対となる芸能です。

散楽の特徴的な要素として、物真似、軽業・曲芸、奇術、幻術、人形まわし、踊りなど、娯楽的要素の濃く、一言に散楽と言っても多くの要素の集合体で幅広い範囲の芸能が含まれます。

現在に伝わる「演芸」は散楽からであると言われています。そのため多くの芸能の源流になります。能楽、歌舞伎、人形浄瑠璃、太神楽と多くの芸能の祖先にあたります。

史書「続日本紀」や「日本三代実録」に散楽に関する記載が残っています。最も古い記録として天平7年(735年)に「聖武天皇が、唐人による唐・新羅の音楽の演奏と弄槍の軽業芸を見た」とあり、奈良時代の大陸との交流が分かります。また、散楽の要素として朝鮮半島系の音楽が伴奏であったことが分かります。

平安時代に散楽を演じる散楽師の組織である散楽戸が解散されたことで散楽師は庶民の前で演奏するようになりました。それによって多くの芸能が日本に生まれるきっかけとなりました。

■雅楽

奈良時代から平安時代初頭にかけて大陸から渡来した雅楽は日本式に変化し、成立していきます。現存する日本最古の芸能になります。

雅楽では「羯鼓(かっこ)」「釣太鼓(つりだいこ)」「楽太鼓(がくたいこ)」「鼉太鼓(だだいこ)」が使用されています。雅楽で最も目を引く楽器である鼉太鼓には豪華な装飾がされ外側を朱色の火炎が取り巻いていることから、火焔太鼓とも呼ばれています。

雅楽は音曲である「管弦」と舞をメインとする「舞楽」、当時の日本に広まっていた民謡を起源とする「歌謡」に分類されます。

また、「大陸系雅楽」と日本固有芸能によって形成された「国風歌舞(くにぶりのうたまい)」に大別されます。大陸系雅楽は唐楽をベースとした左方舞と高麗楽をベースとした右方舞に分けられます。

雅楽は東洋のオーケストラとも言われ、その名の通り雅び豪華絢爛な演奏を奏でます。その中で太鼓は雅楽においても重要な楽器として使用されていました。

羯鼓は指揮者の代わりとして曲全体のバランスを維持する役割を持ち高い技量を必要とする太鼓です。

釣太鼓楽太鼓は節の切り替わりに鳴らされる太鼓で、雅楽の音の重厚感や広がりを表現します。

日本固有の芸能と大陸文化の融合によって生まれた雅楽は、今尚当時の香りを残す芸能として継承され続けています。

■田楽

田楽は「豊作を祈る田遊び」から発展した芸と言われており、腰鼓を使用していたと言われています。田楽の発展により「囃子」が生まれ、現代の「寄席囃子」や「祭囃子」の祖先となりました。

田楽は謎が多い芸能で、平安時代から室町時代においては文化の主流にいた芸能であると言われていますが、近世では足取りは途絶え本来の形としての田楽は消滅した芸能です。

平安時代で田楽は全盛期を迎え、数多くの田楽が日本には存在していました。また、田楽を演じる演者は田楽法師と呼ばれ数多くの田楽座を結成しました。

各地に伝わる民俗芸能の田楽をまとめると、共通する要素として

  • びんざさらを用いる
  • 腰鼓など特徴的な太鼓を用いるが、楽器としてはあまり有効には使わない(飾りである)
  • 風流笠など、華美・異形な被り物を着用する(後の風流に影響を与えた可能性あり)
  • 踊り手の編隊が対向、円陣、入れ違いなどを見せる舞踊である(日本舞踊に分類される)
  • 単純な緩慢な踊り、音曲である(太鼓のよる囃子を伴奏とした)
  • 神事であっても、行道( 経を読みながら歩くこと )のプロセスが重視される
  • 王の舞、獅子舞など、一連の祭礼の一部を構成するものが多い(太神楽系)

という特徴が挙げられます。また、時代によって形式は多く変わっていたと想定されます。田楽の文献資料には992年の「和泉大鳥社流記帳」に記載がありますが史料的には疑問があります。その次に古い史料は998年の「日本紀略」が当てはまります。京都松尾神社の祭礼で山崎の津人が田楽を演じたという記録が記載されています。

現在「田楽」というジャンルで重要無形文化財に登録されているものは文化庁が提供しています。国指定文化財等データベースでは25件確認されます。

現存する田楽も本来のものとは違うと言われているため本来の姿を再現することは難しい状態です。当時の田楽が本来持っていたとされる囃子の音や舞踏のような特徴は、能楽や神楽にエッセンスが宿り、鱗片を覗かせる程度となっています。

1000年の歴史を持つ板橋の田遊び

■神楽

神楽は日本固有の宗教である「神道」から生まれた芸能です。神楽の原型は縄文時代までさかのぼり、儀礼や呪術で行われた舞や歌が神楽へと発展していきます。

散楽戸の解散により流れた散楽の技術は、庶民の間で演じられていた原始郷土芸能と融合していきました。散楽との融合によって現在につながる日本舞踊の原型祭り囃子の原型となりました。

獅子舞仮面を被る舞踊狂言のような滑稽な芸能、太神楽に見られる大道芸などの原点は平安時代にまでさかのぼることができます。散楽は儀礼として行われていた神事に芸能のエッセンスを融合させることになります。そこから独自の発展を遂げ、平安時代中期に神楽の様式は完成したと言われています。

神楽は神社の神楽殿で演奏されました。当時の神楽は舞踊を中心とした芸能で、伴奏音楽には太鼓や笛が使用されたと思われます。また、神楽は郷土の土着信仰や生活習慣と融合し、地域ごとに独自の形態を持つようになり、多種多様な神楽を生むことになります。

神楽の語源は「神座」からきています。神座に神々を降ろし、巫・巫女が人々の穢れを祓ったり、神懸かりして人々と交流するなど神人一体の宴の場として神楽は演じられました。

神楽を舞う人は神の依代であり、その身に神を降ろすことになります。

また、神楽の起源は日本神話の天鈿女命(アメノウズメノミコト)であり、天鈿女命の子孫とされる猿女君が宮中で鎮魂の儀に関わるため、本来神楽は招魂・鎮魂・魂振に伴う神遊びという意味を持っていたと言われています。

神の依代として神坐へ神を降ろす儀式であり、自然を崇拝し、アニミズムの考えを持つ神道でも太鼓は使われました。

囃子もこの時期から演奏され、神楽を囃す音楽として発展をしていったと思われます。

日本文化の開花:中世の日本芸能と太鼓

能楽図屏風: 国立能楽堂 所蔵

貴族の時代から武士の時代へと時代が動いていくとともに、文化の中心もまた貴族から武士に向いていきます。田楽、神楽、散楽のエッセンスは宮廷から民衆へと演じられる範囲が広がり大衆芸能として幅広い地域で演じられるようになります。平安時代後期から鎌倉時代にかけて多くの民俗芸能が様々な地域で生まれた。武士の時代となり、多くの国が形成されたこの時代には地域特有の文化が発展した時代でもあります。

神事の際に演じられる神楽は里神楽として宮廷や京の神社以外でも演じられるようになりました。神楽は神を鎮ませ、慰めるための儀礼が発展したものです。神楽は地域性を強く反映した芸能でもあり、各地域に伝承される土着信仰によって様々な神楽舞を生み出していきました。

神事として行われていた「田遊び」から発展したと言われている田楽も平安時代後期から鎌倉時代にかけて様式が整えられ芸能として洗練されていきました。
田楽は京都で熱狂的なブームが起きていたことが「洛陽田楽記」に残されています。そこには、1096年夏に京都で盛大に行われた田楽(永長の大田楽)についての京の人々の熱中さが描かれています。

また、田楽と同じく人々を夢中にさせた芸能として「猿楽(申楽)があります。猿楽は散楽から生まれた芸能で後の能、狂言へとつながる演舞となります。猿楽の名称は明治時代まで使われていました。散楽を祖先としているため初期猿楽の内容は、物真似などの滑稽芸を中心に発展していきました。

鎌倉時代の頃に演じられていた猿楽は現在で言う翁に当てはまる「翁猿楽」でした。芸として洗練されていく中で「滑稽さ」は猿楽から取り除かれていきます。取り除かれた滑稽さは「狂言」として確立していきます。狂言は猿楽の演目と一緒に行われました。そのため猿楽も狂言も使用する楽器や舞台は同一のものであることが多いです。

猿楽に使用される楽器は四拍子(笛、小鼓、大鼓、太鼓)です。四拍子は現代でも変わらず使用されており、それぞれ専門職として流派があり、現在でも技術は継承されています。少なくとも鎌倉時代の頃には四拍子としての形は確立されており、現在の能囃子と比較的近い曲が演奏されてたのではないかと言われています。

猿楽は田楽延年(平安時代中期に生まれた芸能)とともに互いが互いに影響を与え合い発展し、芸能として熟成されていきました。そして、 観阿弥・世阿弥父子によって現代に伝わるの「能」を今と同じ形まで昇華させることになります。

観阿弥は自身が所属している大和猿楽が得意とした物真似芸に、田楽の優美な舞や、南北朝に流行した曲舞の音曲を取り入れました。この新演出が当時の観客の心に強い感興をおよばしたと言われています。

息子の世阿弥は、当時の貴族・武家社会の幽玄を尊ぶ気風に対して、観客である彼らの好みに合わせた猿楽を創作しました。そして、言葉、所作、歌舞、物語に幽玄美を漂わせる能の形式「夢幻能」を大成させました。現在演じられる能は、世阿弥によって完成された猿楽と同じ形で伝承されています。s能楽で特徴的な謡や四拍子は武士の嗜みであり、教養の1つとして武家の間で流行をしました。

このような芸能の確立、様式の大成によって日本文化は世界の中でも独自のものとして発展していきました。その中で和太鼓は中世において広く深く浸透していったと想定されます。

例えば、源義経とその主従を中心に書いた作者不詳の軍記物語義経記には神社から聞こえる神楽の太鼓に関する描写があります。義経記が書かれたと言われている南北朝時代~室町時代には、太鼓の音は生活の中にある音であることが分かります。

田楽の流行や念仏踊りの登場により各地で盆踊りの原型となる舞踊が行われました。それによって祭囃子の演奏が盛んになったとも言われています。中世の時代で和太鼓は庶民の生活や営みの中で文化の形成を担ってきました。

囃子を全国に浸透させた要因でもある田楽は、室町時代を境に衰退し、歴史から消えてしまいますが、現代に残る囃子のリズムは田楽による影響が残っていると思わえます。

貴族や武士といった時代の中心にいる身分だけでなく、庶民にとっても和太鼓は馴染みのある楽器になりました。和太鼓という楽器は庶民の生活の中に根付いたたことで、歴史の表舞台に表れないほど「当たり前にある存在」になっていたと思われます。

中世の時代には現存する中で最古と思われる大太鼓が残っています。広島県尾道市にある浄土寺の本堂に正和5年(1313年)銘が入っている大太鼓が伝承されています。大太鼓は現在のものと同じ形をしており、少なくとも鎌倉時代後期にはくり貫きの大太鼓を作る技術があったと思われます。

和太鼓は歴史の史料の中に多くは登場しません。そのため、いつの時代から現存の形と同じ和太鼓が作られたのかも、どのような用途で使用されていたのかも多くは謎に満ちています。

中世の時代における和太鼓自体の繁栄や文化を完全な形で知るには、日本各地に残る伝承を紐解き、太鼓がどのような方法で使用されていたのかを検証していく必要があります。また、それでも完全な形で歴史を知ることは難しいと思われます。

ただ、多くの芸能の発展の中で太鼓が使用されていたという文献伝承による事実、大和絵などでさり気なく描かれている太鼓神事祭りの発展庶民への芸能の浸透大太鼓の存在仏教の繁栄など和太鼓が関連する文化が活気に満ち、生まれていることは確認されます。
少なくとも中世に至る頃には現在と同じ形をした和太鼓は、国民にとって当たり前のように存在し、文化の一部となっていたのではないかと想像できます。

まとめ:謎に満ちながらも現代に息づくいにしえの音

古代から中世にかけて日本音楽は形成され、現代につながる形式まで発展をしていきました。

大陸から渡来してきた伎楽、雅楽、散楽は民俗信仰によって各地域に根付いていたと思われる神道の文化と融合をしていきました。

雅楽のような大陸の文化を色濃い芸能も細分化すると、大陸由来のものと渡来以前の文化が融合したものが見受けられると言われています。

古代の日本音楽はさかのぼることが難しく、特に和太鼓に焦点を当てた文化史を掘り下げることは更に難しい状態です。

しかし、古代から中世にかけての音は現代に受け継がれている芸能に色濃く残り、当時の景色を思い浮かべさせてくれます。そして確実に和太鼓は文化の形成において影の立役者として存在していたことでしょう。

中世までに発展したそれぞれの芸能はまた別に深く掘り下げていきたいと思います。

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