創作和太鼓の歴史:世界で活躍する和太鼓団体について

創作和太鼓の歴史:世界で活躍する和太鼓団体について

今回は戦後復活の道を歩むことになる現代和太鼓の歴史を紹介していきます。

文化の形成において太古の時代から支えてきた和太鼓ですが、楽器としての評価は低く、光が当たらなかった楽器でもあります。和太鼓はあくまでも裏方であり、リズムを刻むのが役割でした。過去の文献にも登場する頻度は少なく、歴史の影に隠れていたのは和太鼓そのものに対して音楽的、芸術的価値を持たれていませんでした。

現代和太鼓の歴史において純邦楽という大きな流れがあります。また、この時代の大きな歴史の主点として伝統芸能や民俗芸能の担い手問題創作和太鼓の登場による和太鼓の舞台芸術化など視点が広く全てを掘り下げてまとめることは難しいです。特に地域ごとの発展や、海外展開、国の保護活動、保存団体の発足、教育の義務化など、文化の動きは多岐にわたるため、本記事では歴史の大きな流れに焦点を当てて紹介します。

各分野の細かな歴史や今どうなっているのかは別の機会に調査して記事にできればと思っております。

和太鼓文化の再来:複式複打法の確立と創作和太鼓の登場

創作和太鼓の歴史は太鼓奏者小口大八氏が考案した「複式複打法」が確立した時に始まったといっても過言ではありません。ここから現代和太鼓史は動き出します。

和太鼓は和楽器の中でも特に長い歴史を持つ楽器で、縄文時代までさかのぼることができます。多くの芸能に取り入れられ、能楽、歌舞伎、神楽、雅楽、民俗芸能、日本舞踊、など日本音楽において太鼓は常に裏方として文化の発展を支えてきました。しかし、和太鼓は他の楽器の添え物的存在としてリズムを刻むのみと低い地位の楽器という立ち位置という認識がされています。

小口大八氏によって考案された複式複打法は和太鼓が演奏の主役になる演奏形態です。和太鼓の持つ多様な音楽表現が可能となり、和太鼓を1つの音楽・芸術として地位を上げることになりました。和太鼓という楽器が誕生して以来、初めて「太鼓楽」として日本音楽のジャンルとして産声をあげました。

もちろん複式複打法考案以前にも和太鼓単体の芸能は存在していました。和太鼓を中心とした太鼓踊りは各地域に存在しています。しかし、それらは複式単打法、単式複打法、単式単打法と分類されるスタイルで、1つの太鼓を単独で、または複数人で打つ形式となります。

複式複打法はそれらとは一線を画するもので、複数人が複数の太鼓を演奏するスタイルであり、多彩な音色を生み出し、和太鼓で様々な音楽的表現を可能とした画期的なスタイルでした。

また、複数人で太鼓を叩くという形式は武田信玄配下の陣太鼓集団『御諏訪太鼓21人衆』もこの複式複打法を用いていたと推察されるますが、現在の主流となっている形を考案し確立させたのは小口大八氏になります。

和太鼓の歴史を大きく変えた小口大八氏は戦後1948年に小口家本家の味噌蔵から長野県諏訪地方の伝統芸能「御諏訪太鼓」の譜面(藤太郎覚書)を見つけ、譜面の解読・復元に着手します。そして、明治時代より途絶えていた御諏訪太鼓を1951年に復興しました。

その後小口大八氏は太鼓の胴の長さや直径等の違いで音が違ってくることを利用し、これを組み合わせることによって太鼓をひとつの音楽へと昇華させました。複数人で様々な太鼓が合奏のように演奏される「組太鼓」が世に生まれ、数多くの和太鼓奏者に影響を与えることになります。

また、この新しい複式複打法によって生まれた創作曲に古来より伝わる民俗芸能の持つ民族的精神性(思想や哲学)を織り交ぜたことで、その地域に伝わる伝承や風土を元にした創作曲が生まることになります。その生まれた新しい曲を「地域の芸能」として立ち上げ、地域の再生に貢献した和太鼓の団体が生まれ始めました。失われかけた地域の芸能に対して新たな価値観を吹き込み、新しい伝統として復活の狼煙を上げ始めた瞬間です。

60年代には複式複打法に影響を受け、盆太鼓を中心とした和太鼓団体「大江戸助六太鼓」が東京にて結成されました。50年代~60年代は地域文化の復興を目的とした数多くの保存団体や小口大八氏に影響を受けた太鼓団体が数多く結成されております。

伝統芸能を今に伝える歌舞劇団 田楽座は1964年の秋、「信濃路における民俗芸能に 新しい時代の息吹きを!」また「現代の田楽法師に!」という想いを合言葉に結成されました。郷土芸能に舞台芸術としての新しい価値が融合し、和太鼓は新しい舞台表現を生む楽器として高いポテンシャルを発揮し始めていました。

失われつつあった日本の文化への危機感や、西洋的価値観が浸透する中で「自分自身のルーツ」を知りたいという思想も当時あり民俗学が盛んになりました。数多くの民俗学者がフィールドワークの中で郷土に眠る民俗芸能を掘り起こし、受け継がれてきた芸能文化の再評価が始まりました。

こうした時代の動きは民俗芸能の活発化と和太鼓を中心とした音楽団体(保存会や同好会含む)が数多く現れる中、1970年代に和太鼓の歴史を大きく変える団体が佐渡にて結成されます。 失われつつあった和太鼓の灯火を燃え上がらせ、世界に和太鼓の名を轟かせるスキャンダルを起こし、和太鼓界に大きな革命を起すことになる和太鼓団体「鬼太鼓座」が生まれました。

世界に轟く和太鼓の音:佐渡から全世界へ

参照元:鬼太鼓座

鬼太鼓座は1971年に田耕氏の構想の元、佐渡にて結成されました。

鬼太鼓座を立ち上げた田耕氏は民俗学者の宮本常一氏と佐渡で教論を取っていた本間雅彦氏と出会い、佐渡に「北前船により広がった文化を再構築する」ための四年制大学『日本海大学』と、日本の民俗芸能や工芸を学ぶ『職人村』」設立という構想を含まらせていきました。「活気を失った佐渡に対して、佐渡人が佐渡人として自身を回復させる。その手段として郷土芸能を復興させる」と田耕氏は語ったと宮本常一氏は後に語っています。

プロジェクトの資金を集めるために「太鼓をはじめとした日本の伝統芸能を海外で演奏する団体」を考案し、コンサート形式で演奏することで得た資金で日本海大学と職人村を設立しようと画策しました。田耕氏は7年の活動で資金を貯めて、団体自体はその時に解散する想定だったと語っています。

団体の団員を集めるために「佐渡島の民俗芸能を見て回り、歴史、文化を学びながら、地方文化の良さを見直す」という企画が田耕氏によって構想され、当時TBSラジオ局に勤めていた永六輔氏の協力を得てラジオ番組で「おんでこ座夏期学校」の告知をし、1970年8月23日に佐渡で開催されました。

素人の集まりだった第一期鬼太鼓座に田耕氏は日本芸能における一流の指導者を全国各地から招き稽古に明け暮れました。鬼太鼓座の代名詞となる演目「大太鼓」、「秩父屋台囃子」もこの頃から構成は生まれ、林英哲氏を中心に舞台演奏へと作り上げていきました。

1975年4月21日、鬼太鼓座はボストンマラソンへ参加しました。各メンバーがマラソンを完走しそのまま舞台に上がり「大太鼓」と「屋台囃子」を演奏しました。1975年という時代において大太鼓の衝撃は相当のものであったと想像できます。和太鼓という楽器が世界へ飛び出し、その存在を証明した瞬間でした。

この伝説のボストンマラソンは和太鼓の歴史が始まって以来、最大のスキャンダルでした。多くのボストンっ子は度肝を抜かれたことでしょう。当時アンコールが鳴り止まなかったと伝えられています。鬼太鼓座は世界に衝撃を与え、デビューを果たしました。そして、その衝撃は終わらず現代音楽界にもセカンドインパクトを与えることになります。

ベルリン在住の音楽家石井眞木氏との出会いにより全く新しい現代の太鼓音楽の創造が始まりました。生まれた楽曲の名は「モノクローム-日本太鼓群と銅鑼のための」と「モノプリズム-日本太鼓群とオーケストラのための」でどちらも現代音楽と和太鼓が融合した最初の純邦楽となります。

モノクローム、モノプリズムは世界に再度衝撃を与えました。そして、和太鼓という楽器を名実ともに世界へ轟かせ、日本に和太鼓ブームを巻き起こしたのです。

第一期鬼太鼓座は短い活動の中で、いくつかドキュメンタリー映画を残しています。結果として第一期鬼太鼓座が田耕氏と仲違いになるきっかけとなってしまいましたが、残った映画からは当時鬼太鼓座が与えた衝撃の大きさを感じることが出来ます。

舞台芸術としての和太鼓:80年代~90年代の激動の時代

参照元:鼓童

鬼太鼓座は10年の活動の後、当時の在籍メンバーは田耕氏と袂を分かち佐渡を拠点に「鼓童」を結成しました。現在も鬼太鼓座時代のメンバーの数名は鼓童に在籍しております。鼓童のアイコン的存在でもある太鼓奏者藤本吉利氏は鼓童の中心的人物として長年に渡って演奏をしています。世界にその名を轟かせ、和太鼓の未来を切り開いていくことになる鼓童も、結成当時は太鼓もないゼロからのスタートでした。

鼓童は自らの活動拠点として「鼓童村」を作り地域に根づく活動をしています。また伝統芸能を世界に発信する存在として多岐にわたる活動をしています。佐渡で開催されるアース・セレブレーションの開催や国内外を旅して演奏するワンアースツアーなど、日本国内だけでなく世界中で評価される和太鼓団体として現在も精力的に活動しています。

鬼太鼓座の衝撃、鼓童の快進撃、郷土芸能の復興と和太鼓は新たなブームとなり、80年代から90年代にかけて日本では多くの和太鼓団体が生まれ、活動を始めていました。また、鬼太鼓座初期メンバーであり中心人物でもあった林英哲氏が鼓童から独立したことで太鼓奏者初のソリストも生まれました。

林英哲氏の和太鼓界に与えた影響は大きく、世界的な和太鼓の認知、ジャズやクラシックといった他ジャンルのアーティストとの共演、和太鼓を打ちやすくする様々な台の考案、団扇太鼓を並べた特徴的な組太鼓、そして現在主流となった大太鼓の奏法(大太鼓の奏法自体は鬼太鼓座時代に田耕氏とともに生み出した)と、現代和太鼓に与えた影響は数知れません。2019年現在も現役の太鼓打ちとして世界を股にかけて活動しています。

和太鼓の熱狂は国内を飛び出し海外にも生まれ、アメリカのプロ太鼓団体「サンノゼ太鼓」や英国の「無限響」、北欧の「生動太鼓」など海外でも和太鼓団体が結成され文化が広まっていきました。

北米に和太鼓を広めた立役者として田中誠一氏率いる「サンフランシスコ太鼓道場」が1968年に結成されたました。サンフランシスコ太鼓道場は田中誠一氏が「日本ではお祭りと言ったら太鼓があるのは当たり前なのにアメリカにはそれがない」ということに驚いたことから自身の手で和太鼓を広めようと奮起し活動を開始しました。小口大八氏から教えを受け、アメリカに和太鼓を広めた重要な太鼓打ちとなります。

参照元:サンフランシスコ太鼓道場

■和太鼓ブームの到来

和太鼓を軸に別の音楽ジャンルや西洋楽器など新しい組合せを考案し、新しい創作をする団体も増えました。数多くの創作和太鼓団体が日本に生まれ、その数は現在15.000団体以上とも言われています。

和太鼓の団体が生まれたことで地域の文化を見つめ直すきっかけにもなりました。埼玉県では仙元太鼓という団体が結成地にある神社の神主から仙元山から名を授けてもらったという話もあります。地域に密着した団体が全国各地で多く生まれたことで地域に眠る芸能の再評価や再構築による新作芸能が誕生していきました。

屋台囃子三宅太鼓といった民俗芸能を基にした演目は鬼太鼓座、鼓童によってその名が一躍広がりました。特に90年代以降ではインターネットの普及により全国に一部の地域だけで演奏されていた民俗芸能が広まり、民俗芸能の楽曲を演奏する団体が多く登場するようになりました。

民俗芸能の演目を広めた存在として関東圏内では、1966年に首都圏唯一の歌舞団として東京板橋に創立された「民俗歌舞団 荒馬座」が「首都圏に民族文化の花を咲かせよう!」を合い言葉に活動を始めました。荒馬座の精力的な活動により「ぶち合わせ太鼓」「八丈島の太鼓囃子」などの太鼓舞踊曲は地域に根づき、数多くの団体で演奏されることになりました。

創作太鼓の楽曲では小口大八氏作曲の「勇駒(いさみごま)」がアマチュア団体に大きな影響を与えていました。多くの団体が勇駒をカバーし演奏する団体が90年代は多い傾向にありました。2019年現在も演奏する団体が確認されています。

また、和太鼓ブームの到来により全国各地で数多くの団体が生まれただけでなく、中高生の部活動としても設立されていきました。

■プロ和太鼓団体の登場

和太鼓ブームによって生まれた団体の中からは、プロ和太鼓団体も多く生まれ、日本のみならず世界で演奏をしております。

日本初和太鼓プロ集団である助六太鼓で活躍した太鼓奏者渡辺洋一氏によって1986年に結成された太鼓集団天邪鬼は伝統芸能に現代音楽のアプローチを加えた団体です。新たな和太鼓音楽の確立を目指し活動をしています。「新たな和太鼓音楽」という新しい価値の創造こそ次世代の和太鼓団体に求められているものでした。伝統的な江戸囃子にラテン音楽のリズム感など新しい組み合わせによる創造をしています。


1987年大阪にて結成された打打打団 天鼓は 「観客を楽しませる迫力の響き」をテーマに、和太鼓に演劇の理念を合体させた 演出でデビューしました。伊瑳谷門取氏の呼びかけで誕生し、北林佐和子氏により磨き上げられた和太鼓をベースとしたエンターテイメントは、ユニークな作品づくりとドラマティックな演出法で他の団体とは一線を画し衝撃を与えました。この和太鼓を中心としたエンターテイメントが特出した演出は80年代には生まれていました。


1990年に飛鳥大五郎氏によって奈良県で結成された舞太鼓あすか組は和太鼓の力強さに日本舞踊の持つ優雅なフォームを融合させたスタイルが特徴の和太鼓団体です。日本のみならず世界中で演奏しており、日本舞踊を始めとした日本伝統芸能を演出に取り入れた舞台は高い評価を得ています。

また、飛鳥大五郎氏は次世代の太鼓奏者の育成にも力を入れており、これまでに60チーム 3000人に和太鼓の教育をしてきました。


愛知県を拠点に活動する和太鼓集団 志多らは吉村城太郎・信介兄弟によって1989年ぬ結成されました。地域に根を張ることで生きた文化の礎にふれ、伝統を受け継ぎながら新たな文化を未来に向けて創造することをテーマに活動を続けています。志多らは国の重要無形民俗文化財「花祭り」(東薗目)に「志多ら舞」を毎年奉納しており、地域の芸能に根付いた活動をする団体も生まれその名を世界へ轟かせています。


1993年に愛知県で「世界で通用するエンターテイメント」という目標を掲げ、TAOが結成されました。その後、1995 年に「阿蘇くじゅう国立公園」を有する大分県竹田市久住町に活動拠点を移転しました。現在はTAOの里を拠点に世界で和太鼓の音表現を基にパフォーマンスを行うエンターテイメント集団として活躍をしています。

海外を中心に現在も演奏活動を続け、2019年時点ではTV番組で見かけることも多くなりました。現在において国内国外に名が知れ渡る太鼓団体として活動しております。


1993年奈良県明日香村にて結成された倭-YAMATO-は世界中で和太鼓演奏をする太鼓団体で、現在世界54カ国で4,000公演以上のパフォーマンスを行い、700万人を動員する活躍をしています。

倭-YAMATO-は4人の創設メンバーが地元の神社でオリジナル楽曲「日向」を演奏したことが活動の始まりで、現在は20名以上のメンバーで 1年の過半数を海外公演をしている団体でもあります。

樹齢400年の大木で造った大太鼓がトレードマークで、公演でも目立つ位置に置かれています。また、倭-YAMATO-は「独創的でありたい」を目標に掲げて活動しており、そのパフォーマンスは他の和太鼓団体とは違う血沸き肉躍る迫力のライブパフォーマンスとなっています。


東京打撃団は東京を拠点に1995年に設立しました。主宰である平沼仁一氏は第一期鬼太鼓座に入座し、鼓童の旗上げに参加もしていました。国立劇場主催「日本の太鼓」公演を始め数多くの音楽イベントに出演しています。また、フランス・アフリカツアー、「FIFAワールド カップ フランス大会閉会式」への出演や、「ロシアにおける日本文化フェスティバル」や各種海外ツアーと海外でも活躍しています。2009~10年のEXILE全国ツアーへも演奏参加しており、幅広いジャンルで活躍しています。

組太鼓という太鼓のアンサンブルが持つ音の強さを出したいという思いから結成されたため、 打ち込み系の打法と早打ちで息の合った太鼓アンサンブルが特徴的です。数ある太鼓団体の中でも力強い演奏が魅力となります。


年20世紀最後の年の大晦日に江戸にて産声を上げたのが、切腹ピストルズです。「日本を江戸にせよ!」を合言葉に、野良着で暮らしながら、和楽器による演奏を全国各地で繰り広げるハードコアパンクバンドであり、和太鼓集団でもあります。江戸時代の庶民に伝わっていたはずの「乱痴気騒ぎ」を巻き起こすバンドで、現在もライブハウスやフェスなど様々なジャンルのアーティストと交わりながら太鼓の音を響かせています。

この時代に結成された太鼓団体は鬼太鼓座や鼓童出身者による独立が影響を与えており、現代和太鼓史はルーツとして鬼太鼓座、鼓童へ繋がっていく団体も少なくはありません。

他にも倭太鼓 飛竜和太鼓松村組GOCOOなど紹介したくてもしきれないほどこの時代は多くの太鼓団体が生まれ、和太鼓という楽器の歴史を作っていきました。また、この時代の太鼓団体が現在の太鼓団体に多大な影響を与えています。

また、90年代の和太鼓団体が世界に名を轟かせるきっかけとして世界最大の芸術フェスティバルであるエディンバラ・フェスティバルフリンジへの出演があります。1998年に倭-YAMATO-、1999年にTAOが出演し、世界に衝撃を与えました。海外から日本に逆輸入する形で和太鼓の認知が広まることも少なくはありませんでした。海外での和太鼓への熱狂はこの時期の和太鼓団体の活躍によることも大きいと思います。

21世紀の到来:次世代の狼煙

2002年に東京新聞と財団法人浅野太鼓文化研究所が主催する東京国際和太鼓コンテストが開催されました。2004年には山部泰嗣氏が同大会の大太鼓部門で最年少で最優秀賞を取得しました。

山部泰嗣氏は 「50年に一度の逸材」と注目され、プロ奏者として海外にも活動の場を広げながら、舞台演出・作曲など新たな和太鼓の可能性を追求しています。2018年にオリジナルアルバムとして「TAISHI」をリリースし、和太鼓界を牽引する存在として活動しています。

中学生や高校生の部活動として「和太鼓部」も21世紀には80年代、90年代よりも活性化し、現在和太鼓業界では最も勢いのある部類の1つであり、多くの高校生が和太鼓に触れ合っています。
※筆者も高校生の時に和太鼓部に所属し和太鼓にのめり込みました。

特に全国高等学校総合文化祭は若い太鼓打ちを熱くさせる舞台として全国の太鼓部の発展に貢献しました。 和太鼓部の発展により若い世代が日本の伝統芸能へ興味関心を抱きやすくなり、日本音楽がより身近な存在になりました。

■21世紀の和太鼓団体

2000年に鬼太鼓座から独立した井上良平氏と井上公平氏によって双子ユニットAUNが結成されました。和楽器をベースに幅広い音楽表現をし、新しいミクスチャーミュージックを創造しています。ファンクベーシストTMスティーブンスともコラボしています。2008年には和楽器だけのAUN-J-クラシックオーケストラを結成し、ジブリカバーやJ-POPカバーなど和楽器で新しい表現を現在も創出しています。

2001年に和楽器演奏集団 独楽が結成され、和楽器を愛する者たちで集まった関西を代表する団体です。和太鼓だけでなく津軽三味線や琴、尺八、篠笛などを使い和楽器による趣のある世界観を作り出しています。

2013年に和楽器バンドが結成され、インターネットを中心に大きな話題を生みました。和楽器バンドはボーカロイドの楽曲をカバーし、数百万再生を記録、和楽器の魅力を世界に発信する立役者となりました。

新しい音楽カルチャーとの融合やコラボとして、鼓童もボーカロイド初音ミクとコラボし話題を生みました。和太鼓は様々な音楽カルチャーと隣接しコラボすることで新しい表現を生み出しています。

滝沢秀明氏が主演を務める滝沢歌舞伎では和太鼓を使用したパフォーマンスが大きな話題を生みました。特に屋台囃子の姿勢で打つ腹筋太鼓はテレビで特集が組まれることもあり、若い世代が和太鼓に触れるきっかけを広げました。

氷結のTVCMやつんく♂氏がプロデュースしたことで話題となった和太鼓グループ 彩も従来の和太鼓団体とは一線を画する活躍により、さらに広い層に和太鼓の存在を広めるきっかけとなりました。

21世紀に入り、和太鼓はよりエンターテイメントに特化し、様々な表現方法で和太鼓の音を世界に打ち鳴らしています。伝統芸能の裏方であった和太鼓は、現在エンターテイメントの中心として活用されています。

80年代から生まれた太鼓ブームとインターネットの普及により、和太鼓の認知はより広がっていきました。そして音楽的表現においても芸術的価値においても無限の可能性を秘めた楽器として注目されました。その結果として数多くの和太鼓団体が生まれることになりましたが、それによりある問題点を生んでしまいました。

それは和太鼓の音や音楽性に着目した団体が自分たちの音楽を「伝統芸能」と謳っているのが、実際は郷土の芸能について触れていないものや、太鼓の歴史や文化を知らないという状態が生まれてしましました。

林英哲氏は著書「明日の太鼓打ち」文化の脆弱について述べています。

「地域の特徴を生かした『郷土芸能』が存在意義になっている太鼓では『共通言』でしゃべることには何の価値もありません。太鼓は『訛っている』ことこそ重要な美点(武器)なのです。 中略 (背景を持たない新興芸能が)簡単に生まれているのは文化の脆弱です。地方の文化、ひいては日本の文化が、それだけ力を失ってきた証拠のようで愕然とする思いです」

引用元:林英哲著「明日の太鼓打ち」

新しい創作和太鼓の音楽が広まらなければ「和太鼓という文化」そのものが消失してしまう可能性があります。楽器として日本固有の音を残し、広めていくことは重要なことです。しかし、古典芸能は和太鼓ブームが発生しても衰退の道を歩んでいます。特に郷土芸能は担い手不足により消滅の危機に瀕しています。

まとめ:令和時代の和太鼓

令和の時代になり、創作和太鼓が生まれてから令和元年で約70年となりました。和太鼓がこの世に生まれてからは3000年以上経っているのではないでしょうか?和太鼓の歴史は深く日本の文化そのものに触れることになります。

生活の一部であった時代もあることから日本の歴史の中に和太鼓は常に存在し、当たり前の音としてそこにあったと想像できます。そして数多くの伝統芸能、民俗芸能、郷土芸能、民衆芸能が生まれては消え、統合され、受け継がれ、地域に根づいていきました。

戦後に生まれた創作和太鼓は和太鼓を表舞台へと光を当て、日本から世界へ衝撃を与えました。数多くの団体が生まれ、和太鼓は身近な存在へと再びなろうとしてきました。

残念ながら、日本人にとって身近でどこにでもあり、いつでも触れ合える存在とはまだ断言することはできませんが、プロ団体によって和太鼓の音楽性の高さや芸術性が評価され、数多くのファンを生み出すまでになりました。

和太鼓を含む日本の伝統芸能は大きな転換期を迎えているのではないかと私は思っています。ラグビーワールドカップの演出に加え、2020年に開催される東京オリンピックで日本の芸能により目は向けられると思います。若い太鼓打ちが活躍を始め、より和太鼓の音は世界に轟くことでしょう。中学生や高校生たちの勢いも止まらず、部活動としても年々盛り上がりは増している時代となっています。熱狂は現行のプロ和太鼓団体や数多くのアマチュア団体の活動にも影響を与え、和太鼓の音楽性はより成熟していくと思います。

そんな時代だからこそ、音楽性や見た目のインパクト、エンターテインメント性の高いパフォーマンス、演出としての使用される和太鼓だけではなく、日本の根っこの部分に染み込んでいる和太鼓の歴史や文化に目を向ける必要があるのではないかなと思います。

現行の創作和太鼓の魅力と古き良き芸能の持つ日本文化の本質が交わることで新しい次元の日本音楽が生まれるのではないかと思います。

それは地域の歴史に触れることであり、結果的に郷土芸能の発展へと繋がります。郷土芸能の発展は地方の活性化やコミュニティの形成に繋がります。日本の抱えている問題の解決にも和太鼓は大きな影響を与えることになると思っています。

歴史的、文化的背景を知ることで、より和太鼓の面白さや音の豊かさ、楽器としての価値に深みが増していきます。

そして、その瞬間に和太鼓が本当の意味で「伝統芸能」として評価される日が来るのではないかと思っております。

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