和太鼓の歴史:縄文時代から令和までの和太鼓史
- 2020.01.07
- 和太鼓
和太鼓の歴史は古代から中世にかけて文化的に発展し、戦国時代から江戸時代にかけて成熟していきました。
そして、現代では戦後一度衰退しながらも創作和太鼓として息を吹き返し、和太鼓ブームとして様々な和太鼓団体が生まれています。
今回は縄文時代から令和までを時系列に沿って和太鼓の歴史を紹介していきます。
古代(縄文、弥生、飛鳥)
縄文時代
「打楽器」の誕生は縄文時代に起こっていたと言われています。
石笛や土笛、土鈴のような土器が出土していることからも、同時代には狩猟や情報伝達の手段として「音」を使用しており、打楽器も当時存在していたと考えられます。
実際に。長野県茅野市にある尖石遺跡では、皮を張って太鼓として使用されていたのではないかと推定される土器が出土されたことからも、縄文時代から弥生時代にかけて太鼓の原型は存在していたと思われます。
当時の太鼓は「縄文太鼓」という名称で呼ばれています。また、同時期には「石笛」「土笛」「土鈴」などの楽器があり、儀礼や呪術などで使用していたと考えられています。おそらく音楽的なものではなく、舞踊における拍をとるための原始的なリズムを刻んでいたと思われます。
縄文時代には人の智慧や力が及ばない領域が広く、自然に対して畏怖の念を抱いていたと思われます。縄文時代に使われていたと思われる楽器類は自然に対する儀式として使用されていたと考えられています。
縄文土器の中には宗教的行事で使用されていたと思われる土偶が数多く出土しているころからも「祈り」という文化は生まれており、神を信仰する原始祭祀は生行われていたと思われます。歌や舞は原始祭祀で行われていたと思われるため、日本伝統芸能のルーツは縄文時代までさかのぼり、場を盛り上げる太鼓の音も存在していたと考えられます。
後の時代に生まれる芸能への影響として、雅楽における国風歌舞や原始神楽のルーツとして縄文時代の儀礼の影響も少なからずあると思われます。
弥生時代
日本神話の天の岩戸伝説には天鈿女命(アメノウズメノミコト)による日本舞踊発祥の記載があり、時代背景から弥生時代と呼ばれる時期には芸能としての舞は存在していました。
弥生時代は稲作が普及し、狩猟中心の生活から稲作中心の生活となりました。また、国家が形成され国単位での文化が生まれました。そして自然崇拝から生まれ発展した神道が国の中心となりました。
神道を中心とする古代祭祀舞踊や古代原始歌謡、古代郷土芸能、自然崇拝(アニミズム)の儀礼から、現代に息づく伝統芸能や伝統行事の原型は生まれていたと思われます。
弥生時代末期から古墳時代初頭に当たる3世紀に書かれた「魏志倭人伝」には日本人の音楽性に関する記載があります。
始死停喪十餘曰。當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飲酒。
引用:魏志倭人伝
訳:(人が亡くなると) 喪主は哭泣し、他の人々は飲酒して歌舞する。
和太鼓を使用する芸能である「神楽」の原型や、「雅楽」の1ジャンルである「国風歌舞(くにぶりのうたまい)」の原型は弥生時代に生まれ独自に発展していったと言われています。
また、和太鼓を使用する芸能の1つである田楽の原型となる五穀豊穣の舞(田遊び)もこの時期には原始祭祀の中で生まれたと言われています。
祭祀で楽器は使用されていたと考えられ、弥生時代には「和琴」「笏拍子」「神楽笛」が生まれました。これらの楽器は日本固有の和楽器で、神楽の原型となる神事で行われる舞など様々な祭祀で使われていたと思われます。
現在でも 「和琴」「笏拍子」「神楽笛」 は雅楽の国風歌舞で使用されています。御神楽(一般非公開)でも日本固有の和楽器は使用されていると言われています。
「太鼓」として日本固有の楽器として現在証拠として発見された史料はありませんが、魏志倭人伝での日本人の国民性や和楽器の存在から太鼓に近いリズムを生み出す楽器は存在していたと考えられます。
飛鳥時代
群馬県佐波郡境町の天神山古墳から「太鼓を打つ人物埴輪」が出土したことで、古墳時代前後には確実に「太鼓」と呼ばれる楽器は存在していたと思われます。
「太鼓を打つ人物埴輪」の太鼓をよく見ると縄状の模様が描かれています。太鼓の形状からも、その時普及していた太鼓は「桶胴太鼓」であったと言われています。
日本の歴史において史料の中に初めて和太鼓が登場したのは700年代に記された「古事記」の中で太鼓の存在が記載されています。
この御酒を 釀かみけむ人は、
引用元:古事記「酒樂さかくらの歌曲」
その鼓つづみ 臼に立てて
歌ひつつ 釀かみけれかも、
舞ひつつ 釀かみけれかも、
この御酒の 御酒の
あやに うた樂だのし。ささ。
こは酒樂さかくらの歌なり。
飛鳥時代にはシルクロードを渡り中国大陸や朝鮮半島で独自の発展を遂げた「大陸文化」の渡来が起こります。その中に現在の和太鼓の原型となる「くり抜き胴の太鼓」が含まれていました。長胴太鼓の原型が登場したのはこの時期になります。そして、この時代に渡来した太鼓から締太鼓、小鼓、大鼓、羯鼓、楽太鼓、鼉太鼓、釣平太鼓が生まれました。
音楽様式として新羅楽・高麗楽・百済楽・唐楽が渡来し、日本に元々根づいていたと思われる古代祭祀舞踊や古代原始歌謡、古代郷土芸能と融合しました。和太鼓の原型となる太鼓も大陸音楽と固有芸能の融合とともに日本化し、現代にまで系譜が続いていくことになります。
後に能楽や各地方の神楽(特に太神楽)に発展する「伎楽」も大陸文化とともに渡来しています。伎楽は日本伝統芸能において多岐にわたって影響を与えており、日本芸能史においても、日本音楽史いおいても、和太鼓史においても重要な芸能となります。。
中世(奈良、平安、鎌倉、室町、安土桃山)
奈良時代
奈良時代に記された軍防令(ぐんぼうりょう)には「各軍団ごとに角笛とともに鼓(太鼓)2面を置く」と規定されています。戦場における軍隊への司令となる「陣太鼓」は奈良時代には登場し、戦場において重要な立ち位置にありました。
太鼓の使用は軍事目的だけだなく芸能分野でも使われています。特に和太鼓史において後の時代に大きな影響を与えた芸能として「雅楽」があります。
「雅楽」はシルクロードを渡り、現在の中国にあった国々で体系化し、日本へ渡来しました。奈良時代から平安時代初期にかけて日本固有の芸能や文化と融合し日本式の雅楽は形成されていきます。その中で「釣太鼓」「羯鼓」「鉦鼓」は雅楽を構成する上で重要な要素として独自に発展していきました。
また、和太鼓史において雅楽に次いで発展のきっかけとなった出来事として、て仏教が伝来があります。それにより、仏教思想と仏教音楽が日本に広まりました。仏教音楽である「声明」にて和太鼓は使用されています。和太鼓は寺院に置かれ演奏されていました。奈良時代に建設された東大寺の大仏開眼供養会でも太鼓が使用されたと記録されています。後の時代でも仏教音楽は和太鼓の発展に貢献しており、鎌倉時代の頃には団扇太鼓や木魚、鈴といった仏教における法具が使用されていました。
奈良時代は多くの芸能が発展した重要な時代であり、「雅楽」「仏教音楽」によって数多くの芸能の原型が生まれました。また、奈良時代に発展した芸能の中に演舞系の芸能の祖となる「散楽」があります。散楽では鼓が使用されており正倉院蔵の「弾弓散楽図」には、鼓をバチや手で打つ様子が描かれています。
弾弓散楽図の存在からも現在の能楽で使われる四拍子(笛、小鼓、大鼓、締太鼓)も、散楽で使用される楽器としてそれぞれこの時期には存在していたと言われています。
散楽や伎楽で使われた太鼓は伴奏音楽として発展をしていきました。やがて、そのエッセンスは民衆へ流れ多くの民俗芸能を生み出すことになります。太鼓によって観衆を囃し立てるという手法もこの時代には生まれ、現在の形に至るまでに長い時間をかけて試行錯誤を繰り返して深化していきました。
奈良時代は仏教が強い影響力を持っていましたが、災害や疫病などに対する神事は活発に行われました。神事に関連する祭祀は栄え、神へ奉納する儀式として「神楽」の原型が生まれました。神楽は平安時代に様式が整えられ1つの芸能として独立していきます。
奈良時代は数多くの芸能が生まれるきっかけとなる文化が日本に定着し、様々な文化が生まれていきました。和太鼓史にとっても奈良時代は大きな転換期であり、現代まで続く和太鼓を使用した芸能の発展へと影響を与えました。。
平安時代
平安時代には多くの日本音楽が独自の発展を遂げた時代です。
平安時代をルーツに持つ芸能は現代にも伝承されており、日本各地で多くの民俗芸能が生まれ始めた時代となります。
また、日本人の持つ代表的な美意識である「もののあはれ」が確立された時期でもあり、「無常」や「移り変わり」に美を感じ、多くの芸能や芸術が生まれました。
■雅楽
奈良時代から平安時代初期にかけて大成した「雅楽」は平安時代に全盛期を迎えます。雅楽では「羯鼓」「釣太鼓(楽太鼓)」「鼉太鼓」が使用されています。
羯鼓は雅楽において指揮者の役割を持つ太鼓で、バチを手に取ることが他の奏者へ演奏開始を伝達する印となります。羯鼓の演奏は非常に難しく、長年研鑽した雅楽家でも安易に演奏することは難しいと言われています。
釣太鼓は楽太鼓とも呼ばれる太鼓で、楽曲に大きな区切りをつける役割があります。節目に叩かれる太鼓で、皮を張った先の丸いバチを両手に持ち演奏します。通常釣太鼓にの面には七宝模様の美しい彩色が施されています。
鼉太鼓は雅楽で使用される楽太鼓のうち最大のものです。太鼓の周囲を宝珠形の五色の雲形板で囲み、さらにその外側をおびただしい朱色の火焔が取り巻いていることから、火焔太鼓ともよばれます。
雅楽は後に発展する日本音楽にとって大きな影響を与えることになります。大陸文化を色濃く宿す芸能ですが、平安時代中期には日本化していきました。日本音楽の特徴として「歌舞」という要素があり、雅楽は管弦(音曲)よりも舞踊に大きな影響を与えていきました。
貴族の間で雅楽・舞楽が流行するのと同時に一部エッセンスが庶民へ流れ、大陸文化を基盤とした芸能の原型が生まれました。
また雅楽は日本人独特の美意識である「みやび」が強く反映された芸能となります。
■猿楽
奈良時代後期~平安初期に散楽師たちによる組織「散楽戸」が廃止され、庶民へと散楽が流れ物真似などの滑稽芸を中心に発展した「猿楽」が生まれます。
初期猿楽は伎楽や散楽で使用していた太鼓を使い四拍子の原型となる伴奏音楽で舞を行っていたと思われます。
猿楽は後の時代で能楽として大成する芸能ですが初期猿楽は散楽の影響が強く、散楽の流れをくむ軽業や手品、曲芸、呪術まがいの芸など、多岐に渡る芸能を行いました。後の狂言や太神楽にも大きな影響を与えた芸能となります。
平安時代に藤原明衡が著した「新猿楽記」は猿楽のジャンルを列挙し、また名人の批評を行う内容で、猿楽が幅広い芸能を世に伝えています。
猿楽で使用する太鼓を「猿楽太鼓」と呼ぶこともあります。猿楽太鼓は現在の締太鼓を指します。猿楽の発展により太鼓は舞台において重要な立ち位置となり、数多くの芸能でも使用されるようになりました。
猿楽は後に「幽玄」という日本独自の美意識を生む芸能となります。また、所作の美しさや稽古に対する思想など後の日本文化に大きな影響を与える芸能となります。
■田楽
豊作を祝う「田遊び」や五穀豊穣を祝う豊作祭から田楽の原型となる芸能が生まれました。平安中期に田楽は芸能として洗礼され、平安後期には一大ブームとなりました。
平安時代に書かれた「栄花物語」には田植えの風景として謡い踊る田楽が描かれています。さらに、大江匡房の「洛陽田楽記」には、永長元年(1096年)には「永長の大田楽」と呼ばれるほど京都の人々が田楽に熱狂し、貴族たちがその様子を天皇にみせたと記載があります。
平安時代後期には寺社の保護もあり多くの田楽法師が生まれ、田楽座が設立されています。
陣太鼓で太鼓を打つ役割を担っていたのは田楽法師であったと言われています。このことから田楽法師は太鼓を打つことに長けていたと想定されます。
田楽の全国的な普及により多くの「囃子」が生まれました。地域に根づいた芸能はやがて郷土芸能として成立していきます。
■神楽
散楽戸の解散により流れた散楽の技術は原始郷土芸能と融合し、現在につながる日本舞踊の原型や祭り囃子の原型となりました。そこから古来より儀礼として行われていた神事に芸能のエッセンスが融合し、平安時代中期に神楽の様式は完成したと言われています。約90首の神楽歌が存在しています。
神社の神楽殿で演奏されることが多く、催事で披露された。舞踊を中心とした芸能で、現代に伝わる神楽から推測するに平安時代の神楽でも伴奏音楽には太鼓や笛が使用されたと思われます。
演じられた神楽は招魂・鎮魂・魂振に伴う神遊びという意味を持っていたと言われています。自然を崇拝し、アニミズムの考えを持つ神道に使われる太鼓もまた、神具として神聖なものとして扱われていた可能性があります。
■延年
平安時代は猿楽、田楽の発展と同じく延年も発展していきました。
延年は寺院において大法会の跡に僧侶や稚児によって演じられました。延年は単独の芸能ではなく舞楽や散楽、連琴、風流、大衆舞、倶舎、歌舞音曲、猿楽、田楽、白拍子、小歌、声明など多くの芸能が取り入れられた遊宴歌舞です。
貴族芸能と民衆芸能が雑多に混ざり合っており、観客を楽しませるために様々な芸能を取り入れながら発展していきました。
延年の正確な起源は解明されていませんが、平安時代中期には行われていたと言われています。
延年にも太鼓は使用されていたと言われています。舞踊を中心とした芸能ですが、舞踊を囃す伴奏音楽には太鼓の音があったと思われます。
平安時代において延年は田楽、猿楽に影響を与えながら独自に発展を遂げていき、鎌倉・室町時代で最全盛期を迎えます。
鎌倉時代
貴族の時代であった平安時代に対して鎌倉時代は武士の時代となりました。
仏教の発展や武士を中心とした芸道の発展が起こり、日本の文化にとって大きな変換期でもあります。特に旅芸能が流行し、白拍子や今様を始めとした舞踊が全国各地で行われました。
猿楽や田楽も物語性が高まり、多くの武士が愛好しました。鼓や謡は武士を中心に発展をしていきます。そして、庶民へも芸能のエッセンスが流れ庶民芸能が多く生まれました。この時期にも数多くの囃子が生まれ、後の世に影響を与えたと思われます。
狛近真によって記された「教訓抄」は古来の楽曲、楽器の由来や奏法について記した初めての総合的な音楽書で、雅楽で使用される太鼓の奏法についての記載もされています。
鎌倉時代は仏教音楽が栄えた時代でもあり、声明や琵琶楽が発展していきました。声明の影響は大きく、後の時代に謡物の芸能が多く生まれることとなります。
■猿楽(翁猿楽)
鎌倉時代には猿楽は現行の「翁」と同等の形で行われる「翁猿楽」が行われていました。翁猿楽には四拍子が使用されるため、この時代には能囃子は現代のものと近い形で行われていた可能性もがあります。
翁猿楽は寺社の法会や祭礼に取り入れられたため、猿楽は寺社との結びつきを強め、座を組織して公演を催す集団「猿楽座」が多く生まれました。また、主に神社で行われていた「神楽」「田楽」や主に寺院で行われていた「延年」とともに当時の芸能として発展し、独自の進化を遂げていきます。
特に現代に残る神楽には能面や謡い、舞踊を伴う猿楽のエッセンスが残るものもあり、この時代に生まれたものが現代に残っている可能性もあります。神楽で使用される楽器も四拍子に当てはまるものが多く、互いに影響を与えて発展していったと想定されます。
この時期には平知康のような「鼓の名手」と呼ばれる太鼓打ちが生まれ、文献に残っております。他には源頼朝も「鼓の名手」と呼ばれていたと言われています。
■鎌倉時代の和太鼓
広島県尾道市にある浄土寺の本堂に正和5年(1313年)銘が入っているくり抜き胴の大太鼓があり、少なくとも鎌倉時代にはくり抜き胴の大太鼓を作る技術があったことが分かります。
北秋田市で行われている八幡宮綴子神社(武内尊英宮司)の例大祭では氏子による大太鼓・獅子舞の奉納行事が鎌倉時代から行われていると伝えられています。水不足に悩まされた人々が雨乞いの祈りが天に届くように、と想いを込めて大きな音を轟かさせる大太鼓が作られました。現在でも伝承され、世界一大きな大太鼓としてギネス記録に載っています。
滋賀県守山市古高町の大将軍神社で行われる古高鼓踊りも鎌倉時代から始まったと言われている神事で、田楽踊りに由来する雨乞いや慈雨に対するお礼の舞として生まれたと言われています。
現代に伝承された芸能には鎌倉時代を起源としたものも多く、和太鼓が使用されていたと確認できるものもあります。和太鼓は歴史の中に現れることは多くはありませんが、伝承された民俗芸能から日本人にとって当たり前の存在として側にあったと思われます。
室町時代
室町時代は武士の文化が大成した時期です。そして日本伝統芸能にとって最重要な芸能である「能」が大成された時期でもあります。
和太鼓史においても能の大成は大きく、四拍子(笛、小鼓、大鼓、締太鼓)の技術的発展と哲学的な思想の発展へと繋がります。現代まで継承される囃子方の鼓の技術はこの時代に確立しました。
また、能の確立だけでなく、この時期には数多くの舞踊や神楽が生まれました。現在も伝承されている芸能の起源として室町時代までさかのぼることは珍しくなありません。
「盆踊り」も室町時代に生まれました。3大盆踊りと称される「西馬音内の盆踊り」「毛馬内の盆踊り」「一日市の盆踊り」の起源は室町時代までさかのぼることができます。
和太鼓は史料に残ることが少ないため推測の域は出ませんが、祭囃子の発展はこの時期に大きく進んだ可能性が想定されます。
■猿楽能(夢幻能)
延年のエッセンスと田楽のエッセンスが融合し観阿弥によって「猿楽能」が洗練されていきます。そして、世阿弥によって現在の能と同じ形まで大成され「夢幻能」が生まれました。
能に使われる「四拍子」はこの時点で現代につながる形式まで成立したことになります。また、室町時代には四拍子に使われる太鼓は広く浸透し、現代の和太鼓への系譜が鎌倉時代から室町時代には確認できるようになります。
能楽は完全分業制であるため、役割ごとに流派が生まれました。四拍子の小鼓、大鼓、太鼓、笛でそれぞれ専門家が確立され、現代でも楽器ごとに技術が継承されています。
▶小鼓方の流派
- 観世流
- 幸流
- 幸清流
- 大倉流
▶大鼓方の流派
- 観世流
- 葛野流
- 高安流
- 大倉流
- 石井流
▶太鼓方の流派
- 観世流
- 金春流
▶笛方
- 一噲流
- 森田流
- 藤田流
■和太鼓の浸透と民俗芸能の発展
乱世の時代であった室町時代には陣太鼓が発展しました。織田家と武田家の合戦である長篠の戦いを描いた「長篠合戦図屏風」にも陣太鼓が描かれています。
郷土芸能の発展も加速していきます。室町時代から安土桃山時代にかけて、岩国行波の神舞、鬼太鼓、虫送り、松囃子御能といった現代でも継承されている芸能が生まれました。太鼓中心とした芸能が民俗文化の発展とともに地域の風習や生活と結びついた行事として確立していきました。
多くの民俗芸能は念仏踊り、陣太鼓から生み出されたものや猿楽能、田楽能、延年、白拍子、風流といった当時流行していた芸能のエッセンスが庶民に流れ確立したものであることが多いです。元々神事で演じられていた神楽や地域に根づく伝説と混ざり合い創作されていきました。
特に佐渡島は流刑地として多くの芸能役者が流されたことで数多くの民俗芸能を保有しています。順徳上皇や日蓮など貴族や知識人が佐渡に流刑され文化的に発達している中に、能楽を大成させた世阿弥が佐渡島へ流刑されたことをきっかけに多くの芸能を生み出すことになりました。
多くの芸能が日本中で生まれる中で和太鼓はリズムを刻む楽器として使用されていました。また、和太鼓を主役とした芸能も生まれています。
発祥は平安時代とも言われている「和知太鼓」や戦国時代後期~安土桃山時代初期を発祥とする「御陣太鼓」など現代でも演奏される和太鼓を主役とした芸能が室町時代周辺の時期にはありました。
太鼓の需要が高くなっていくため「太鼓職人」も多く生まれたのではないかと思われます。季節ごとに行われる行事の中で和太鼓は使用され、1年中太鼓の音が聞こえていたのではないかと思われます。
安土桃山時代
豪壮・華麗な文化を特徴とする「桃山文化」は日本美術史において大きな発展をした時期になります。「茶道」の大成や「桃山建築」の発展、「陶磁」や「漆工」「染織工」など多くの工芸の発展など多くの文化が花開きました。能面や衣装もきらびやかで華麗なものが現れ、現代の能衣裳のイメージを作る時代となりました。
■芸能の発展
田楽、延年が衰退し、猿楽能が発展していきました。この時代の支配者である織田信長・豊臣秀吉もまた猿楽能や狂言を好んでいた武将の1人で重要なパトロンでした。特に豊臣秀吉は能楽を自身も習っていたほどで、熱心な愛好家でした。
庶民を対象に、路傍に囲いを設けて能楽をおこなう辻能という興業が一般化したことで能が大衆化されました。そして狂言も能の大衆化に合わせて現代に続くスタイルへ整えられていきました。
安土桃山時代の末期で江戸時代の初頭にかけて「初期歌舞伎」が登場します。三味線の普伝来や鋲留めの長胴太鼓の普及と重なり歌舞伎音楽は発展を始めます。後に下座音楽として大成する囃子はこの時期から形成されていったと思われます。
また、室町時代に生まれた「盆踊り」が全国的な発展を始め、江戸初期には最全盛期を迎えます。そのためこの時期に多くの音頭が全国各地で生まれたと想定されます。そして、音頭で使われる祭囃子も郷土の生活習慣や訛りを加えて独自に発展をし始めたと思われます。
近代(江戸、明治、大正)
江戸時代
江戸時代は日本文化が大成された時期で、数多くの文化が生まれ独自の発展を遂げました。日本音楽も江戸時代に大きく発展し、現代に続く日本音楽の形式は江戸時代に成立されたものであることが多いです。
和太鼓も江戸時代に全盛期を迎え、音楽的にも文化的にも発展を遂げました。多くの和太鼓が全国各地で製造され、様々な場所で演奏されました。
和太鼓は笛や三味線といった他の和楽器が奏でる主旋律を支える裏方でありましたが、太鼓鼓好きが集まって打つ「のら打ち」なども当時行われ、芸術性や技を競う競技会のようなものが発生していました。
和太鼓が最も広く浸透し、多くの人に好まれた時代が江戸時代となります。
■太鼓屋の創業
江戸時代初頭1609年に浅野太鼓楽器店の前身となる皮革製造業が創業されます。現代に続く和太鼓製造会社として最古の会社である「浅野太鼓楽器店」は戦国時代終わりに生まれました。浅野太鼓楽器店は江戸初期から現代にかけての和太鼓史の中で最も重要なメーカーの1つです。
江戸中期1717年に杉浦太鼓店が創業し質の高い太鼓を製造し続けています。1789年に三浦太幸堂が創業、200年に渡る製造技法を現代に継承しています。浅野太鼓楽器店と同じく現存する太鼓製造会社としては最古の部類に入り、和太鼓史において文化の発展に大きく貢献しています。
江戸時代末期には多くの太鼓メーカーが創業されます。1833年に中島太鼓店が創業、続く1835年に岡田屋布施が創業、1861年には国立能楽堂や歌舞伎座、神社・仏閣などに楽器を提供する宮本卯之助商店が創業されます。
同時期には神社や地域の芸能保存団体へ太鼓を製造している三崎屋太鼓店や、創業時は和楽器全般を扱うメーカーであったアサノ楽器(現在は琴中心)が創業されます。
続く1865年に「音」へのこだわりを初代から続けている三浦太鼓店が創業。1870年(明治3年)に創業された丸岡太鼓店は江戸末期に太鼓屋で仕事を覚えた丸山庄五郎によって創業されました。
数多くの太鼓職人が生まれ、多くの和太鼓が製造され現代に残っています。江戸時代に制作された和太鼓の中には現在も現役で使用されているものもあり、長い歴史とともに当時の「音」も継承されています。
和太鼓は「部落産業」との関係が切っても切り離せない楽器であり、和太鼓の歴史の影には部落の職人が登場します。
彼らは和太鼓の胴の内側に自らの存在を刻みました。和太鼓は華やかな舞台で使用されていたり、人々の生活の中に溶け込む多様性のある楽器でした。しかし、その影には日本史の影の部分とも深く関連していることになります。
■歌舞伎
江戸時代に最も栄え、和太鼓史において大きな影響を与えた芸能の1つとして「歌舞伎」があります。歌舞伎の下座音楽には和太鼓が使用され、和太鼓は感情や自然を表現する楽器として発展していきました。和太鼓による表現技法の発展は歌舞伎によって加速的に成長したといっても過言ではありません。
■日本舞踊
歌舞伎と同じく江戸時代に急速に発展した芸能として「日本舞踊」が挙げられます。中世から日本舞踊は発展をしていきましたが、江戸時代に巫女舞、筑紫舞、剣扇舞、稚児舞、吉志舞、剣詩舞、獅子舞、座敷舞、翁舞、曲舞、地歌舞、仏舞、上方舞と様々な形の舞が独自の発展をし、郷土芸能として定着します。また、舞踊を囃す伴奏音楽として和太鼓は使用され、発展をしていきました。
■囃子
寄席囃子、出囃子、祭囃子と様々な行事、催事、祭り、余興、芸能で和太鼓は使われました。江戸時代に発展した「囃子」は現代の「和太鼓」のイメージを作り、現代でも落語や講談、歌舞伎に能楽、地域のお祭や神楽に盆踊りと様々な場所で演奏されています。相撲でも「触れ太鼓」「寄席囃子」「跳ね太鼓」が演奏されています。
また、日本三大曳山祭(祇園祭、高山祭り、秩父夜祭)などでも使われる山車も発展しました。山車の歴史は古く古事記までさかのぼることができますが、お祭りとして多くの文化が栄えた江戸時代に出しは全国各地で作られ、今に至る形まで発展をしていきました。
江戸で数多く生まれた祭で演奏される祭囃子は「 江戸祭囃子 」と呼ばれ、数多くの囃子が現在も演奏されています。「葛西囃子」が江戸近郊で演奏されていた祭囃子の祖となったと言われています。
明治時代
文明開花により多くの西洋文化が日本へ訪れ、西洋化が急速に進み日本は近代化の道を歩みます。明治時代以降文化の主流は西洋となり音楽は西洋の音楽理論と西洋楽器が一般に浸透しました。
和太鼓は「日本の伝統楽器」として芸能の中で使われるようになりました。
西洋化を進めるために学校の教育では西洋文化を基にした学術や芸術理論が教えられ、日本古来の文化や伝統、日本音楽は教育内容にほとんど含まれていませんでした。
また、文明開化を早く進めたい政府により進められた「欧化政策」で、西洋文化が積極的に採り入れられた一方で、江戸時代までの芸能を退ける「文化政策」がとられました。
劇場でも風紀を乱す演出や内容は禁じられたため多くの芸能が衰退し、太鼓を利用した一部の表現技術や囃子などの演出技法は衰退していきました。
都心では盆踊りを始めとする郷土芸能の文化も明治から大正にかけて衰退していきます。新しいものが好まれ、従来の文化は古臭いものと見られたために衰退が進んだことが要因として考えられます。
しかし、地方町村部では場所によっては、昭和に入る頃まで江戸後期の伝統や風習が続くなど、生活の変化は遥かに緩やかなものでした。
そのため明治時代における急速な西洋化施策がある中で現代まで伝統芸能や郷土芸能が残るのは、地方で続けられた伝統的な生活習慣が要因としては大きいです。
明治時代で演奏された和太鼓音楽は「神楽」や「盆踊り」での「祭囃子」や「太神楽」や「落語・講談」で演奏される「寄席囃子」、「能」や「狂言」で演奏される「四拍子」、「歌舞伎」で演奏される「下座音楽」、民謡で演奏される「伴奏音楽」などで、江戸時代から続く打法とリズムで構成されていたと思われます。
明治22年に歌舞伎座が設立されました。
西洋の音楽理論が入ったことで和楽器を使用した近代音楽が作曲されたり、三味線や尺八、箏・琴の独自の発展、習い事での取得など和太鼓を始めとした和楽器は西洋化の中でも演奏され続けました。
明治時代には現代歌舞伎において大きな影響を与えた九代目市川團十郎や五代目尾上菊五郎が活躍しました。西洋化によって上州階層や外国人に見せるにはふさわしくないと批判された歌舞伎に変革をもたらしました。和太鼓もまた激動の時代の中で芸能を支える裏方として演奏され続けていきました。
大正時代
大正時代は同時代にヨーロッパで起こっていた精神運動「ロマン主義」の影響を受けて、大正時代の個人の解放や新しい時代への理想に満ちた風潮が起こっていました。現代ではしばしばこの時期の文化を「大正ロマン」と呼びます。
大衆向け新聞・書籍・雑誌の普及や録音技術の発達、近代的な工業化、私企業の発展によって西洋文化が日本化されていきました。
西洋文化の影響を受けた新しい文芸・絵画・音楽・演劇などの芸術が浸透し、自由や開放という思想が広がっていきました。
この時期には宝塚歌劇団、藝術座のような劇団の結成や浅草オペラや有楽座などの劇場が設立されました。吉本興業や日活など多くの芸術や芸能を行う興行会社が生まれ日本の文化は発展を遂げます。
和太鼓は演劇での演出や無声映画の演出として新しい使い方をされていきました。時代劇では和楽器は必要不可欠な楽器でした。
また、急速な西洋化によって失われた日本文化を復興させる動きもいくつか起こりました。「盆踊り」は大正時代に復活した芸能の1つです。祭囃子が再び演奏されるよういなりました。
日本の文化は発展し、西洋文化と日本文化が混ざり合う形で「日本化」が進みましたが、2度の世界大戦により和太鼓を中心とした芸能の勢いは失われていくことになります。
現代(昭和、平成、令和)
昭和時代
1945年に第二次世界大戦が終戦しました。そして、1946年から全国各地で盆踊りや郷土芸能が復興され始めました。戦前衰退していた和太鼓は祭太鼓から復活を始めました。
それから6年語の1951年に小口大八氏が「御諏訪太鼓」を結成します。組太鼓を確立し、複式複打法の演奏スタイルを提唱します。
1953年に「わらび座」が結成されます。日本の伝統芸能や民俗芸能を復興させる動きが生まれ、西洋化された日本の文化の中で日本人のルーツを探る民俗学者の働きが加速します。
その後1961年に大場一刀氏が「北海太鼓」が結成、1962年に小林正道氏が「大江戸助六会」を結成します。
組太鼓というスタイルが世に広まり多くの太鼓団体が生まれました。そして、この時期に結成された太鼓団体が和太鼓ブームの火種を生みます。
1971年に田耕氏によって佐渡にて第一期「佐渡の國鬼太鼓座」を結成します。1975年にボストンマラソンで衝撃の世界デビューを果たし、和太鼓は世界に向けて存在を知られることになりました。
1977年には国立劇場で「日本の太鼓」が開催されます。この時期には和太鼓は大きな流行を生み「創作和太鼓」は新たな新興芸能として流行し始めました。そして、1979年に全日本太鼓連盟が発足され、和太鼓は土台を強固にしていきます。
そして1981年に佐渡にて「鼓童」が結成されます。同時期には川田公子氏によって「みやらび太鼓」も結成されました。
翌年に林英哲氏が和太鼓奏者として初のソリストとしての活動を開始しました。
1987年の頃に地域創生の一環で多くの和太鼓団体が発足され和太鼓ブームは全国に発展していきました。
1988年に太鼓専門誌「たいころじい」が発刊されました。昭和という時代は和太鼓にとって激動の時代であり、和太鼓が文化として成熟を始め、和太鼓が持つ大きなエネルギーの塊が爆発した時代でした。
平成時代
平成は80年代に起こった和太鼓ブームによって多くの団体が生まれた時代でした。そして和太鼓の持つ新しい可能性に注目され、和太鼓が新しい価値を持って世界に発信された時代です。
1991年に鼓童がレナード衛藤氏作曲の「彩」を発表、この時に使用した担ぎ桶太鼓が空前絶後の大ブームとなりました。
1993年に林英哲氏がベルリン芸術祭に出演しました。同時期に鬼太鼓座はカーネギーホールで全米一周完走帰還公演を行いました。
和太鼓団体や太鼓打ちが世界に向けて発信を続け、創作和太鼓という新しい音楽が日本文化の忘れ去られた価値に光を当てました。
1997年に全日本太鼓連盟が公益財団法人日本太鼓連盟に改組しました。1999年に第一回日本太鼓ジュニアコンクール開催、さらにロサンゼルスでは第一回北米太鼓会議が開催されました。
平成には全国の高校で和太鼓部が発足し、全国各地で高校生による和太鼓の演奏が行われていました。1977年から開催されている「全国高等学校総合文化祭」に平成に和太鼓の参加が目立つようになり、2000年には発表は混戦でありながらも民俗芸能とは別枠で区別されるようになりました。
和太鼓が高校生にも演奏されるようになり、和太鼓という文化は広く浸透し始めました。
しかし「創作和太鼓」の発展は古来の日本文化によって育まれた和太鼓の歴史や和太鼓本来の音、和太鼓という楽器の特性、バチさばきや音楽性など和太鼓に関する知識や教育が十分に行われず、背景のない芸能へとなりつつありました。和太鼓を広めた第一人者である西角井正大氏は「たいころじい」にて和太鼓の未来を案じる発言をしています。
2006年に鼓童は歌舞伎役者の坂東玉三郎氏演出・出演で「アマテラス」を公演しました。伝統芸能は創作太鼓と融合し、新しい世界を切り開きました。
2011年に起きた東日本大震災で壊滅的な被害を受けた東北に対して郷土芸能の復興から地域を支える動きが起こりました。
和太鼓は人と人をつなぐコミュニティーとしての役割を持ち、和太鼓によって多くの人が東北の復興のために力を尽くしました。
2012年に財団法人日本太鼓連盟は公益財団法人日本太鼓財団に移行しました。
2015年に浅野太鼓楽器店から締獅子太鼓が発売されました。和太鼓は平成の時代にも新しい楽器を生み、新しい音を創造し続けています。
2018年には和太鼓グループ彩が氷結のTVCMに乃木坂46の白石麻衣氏と東京スカパラダイスオーケストラとコラボで出演しました。
芸能人による和太鼓演奏や演出では滝沢秀明氏による「滝沢歌舞伎」も大きな影響力をもっています。秩父屋台囃子を思わせる打法は「腹筋太鼓」と呼ばれ演出に使われています。音楽家やアイドル、役者による和太鼓演奏や演出は増加傾向にあります。
平成最後の出来事に明仁親王(平成当時の天皇陛下)の生前退位があります。平安時代の文化をベースとした雅楽(国風歌舞)が儀礼として行われました。それにより古来より続く日本の伝統芸能や文化に目が向くこともありました。
平成は和太鼓史において昭和に続く激動の時代でした。昭和に起きた和太鼓ブームは落ち着きましたが、和太鼓の灯火は消えることはなく燃え盛り、今また新しいエネルギーを秘めて爆発しようとしています。
令和時代
令和の時代は和太鼓や日本の伝統が再び注目される可能性があります。
2019年ラグビーワールドカップでは選手入場の演出に和太鼓が使用されました。多くの和太鼓奏者が出演し、和太鼓の鼓舞する性質が発揮された瞬間でした。
また、「24時間テレビ42」で嵐の松本潤氏による「東日本大震災から8年 天まで響け!復興の和太鼓」企画で和太鼓を演奏し、和太鼓が注目されました。
2020年には東京オリンピック・パラリンピックが開催されます。東京オリンピック・パラリンピックの開閉式の演出に狂言師の野村萬斎氏が就任しました。
閉会式で演出されると思われる和の世界で日本文化に再び陽の目が当たる可能性があります。
和太鼓を始めとした伝統芸能、民俗芸能、郷土芸能が流行するポテンシャルが令和時代にはあります。和太鼓がこの先、文化として世に認めてもらうには「本質」をしっかりと理解し、「伝統」という言葉の意味を持った「背景のある芸能」である必要があります。
「物珍しい楽器」という理由でブームが起こることは無いと思われます。
伝統と歴史や文化的背景を持った創作和太鼓が新しい芸能として認められ、再度大きな和太鼓ブームを起こすと思われます。
令和の時代は和太鼓が持つ地域性や鼓舞する力、どこか懐かしく親しみがある楽器であるという特性が時代に合うと思われます。
令和という新しい時代の太鼓史はこれから刻まれていきます。
まとめ
和太鼓を中心とした歴史を見ると、現代の和太鼓は多様性に溢れ新しい表現を求める時代となりました。
エンターテインメントの中心に置かれることも珍しくなく、和太鼓という楽器は身近な日本の伝統楽器として浸透しています。
現在和太鼓は「伝統芸能」や「伝統音楽」には当てはまらない新興芸能であり、「太鼓楽」または「和太鼓楽」としては日本音楽として認識されていない(少なくとも日本音楽を扱う書籍には創作和太鼓は触れられることのみである)ため、まだ未成熟な領域であるとも言えます。
特に近代以降の和太鼓の歴史は語り草でしか伝わっておらず、しっかりとまとめた全体を包括する和太鼓史を知ることは難しいのが現状です。
和太鼓という楽器が作る音楽文化を発展させるためには太古の時代から続く和太鼓の系譜を辿り、現代の太鼓打ちが成し遂げてきた表現方法や和太鼓に込められた哲学を学べる場を作るべきだと私は思います。
また、体系化された和太鼓の系譜があるからこそ、新しい表現が生まれ、和太鼓の持つ芸術性や価値が高まると思っています。
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