日本伝統芸能ってなに?:能や歌舞伎だけじゃない!意外と知らない日本の伝統芸能
- 2020.01.03
- 伝統文化
日本伝統芸能とは「日本に古くからあった芸術と技能の総称」を指します。伝統芸能の多くは明治時代以前に大成した文化を指すことが多いです。
日本の伝統芸能は多岐にわたり日本全国に多くの芸能があります。日本の文化でありながら知名度は低く、その全貌は専門家でないと知ることが難しいという欠点があります。また、教養を必要とする敷居の高さが伝統芸能を遠ざけてしまう要素となっています。
今回は、数多く細分化されている日本の伝統芸能をまとめました。知名度が高いものから、中々知られていない芸能まで紹介いたします。
伝統芸能とは何か
伝統芸能の多くは「教養」的な扱いとなり、学問、文学、美術、音楽など人類が生んだ文化のうち、その社会において高い達成度を示していると位置づけられた「ハイカルチャー」に分類されます。
日本に古くからあった技術や芸能が伝承され、今に伝わるものに対し「伝統」という冠を付け、日本固有の文化として広く紹介されています。
伝統芸能も発生した当時は「伝統」ではなく最先端の新興芸能でした。
現代に生きる私達とは違う価値観や環境に生きていた人々が生み出した芸能の世界は、私達にとって新しい文化に見えることもあれば、難しい考え方のものもあります。
伝統芸能は「歴史」という背景があって初めて成立するものもあり、ただ単に鑑賞するだけでは「面白さ」は伝わらないものが多いです。
基本的に伝統芸能は明治時代以前に生まれた芸能、または明治時代以前にルーツを持ち復興や創造された芸能を指すことが多いです。
今回は日本の伝統芸能を各ジャンルごとに解説していきます。
日本舞踊
日本の伝統芸能の中でも舞踊は長い歴史を持つ芸能です。神話の世界でも天の岩戸伝説で天鈿女命が舞ったことが記るされているように「舞う」ことは日本に古来より根付いた文化となっています。3世紀ころに書かれた「魏志倭人伝」には「倭のクニにはウタとマヒがあり…」と記載されています。
農耕民族である日本人には五穀豊穣を祈願する田植祭や儀礼の中で「舞」は頻繁に行われていたと言われています。万葉集や日本書紀にも舞や歌に関して和歌があることからも長い歴史を持っていることが分かります。
舞踊は日本固有の舞いと大陸から渡来してきた舞踊文化と融合や影響を受け、様々な形に発展していきました。
多くの芸能は現代に継承され、その姿を見ることが出来ます。
神楽
「神楽」は日本神道の神事において神に奉納するために演奏される歌舞を指します。神楽の役割は「祈り」であり、神に献上する歌舞芸能としてあらゆる地域に根づいた芸能です。
神楽は神社の祭礼や祭祀で行われる儀礼で、神社に置かれている「神楽殿」で行われることが多いです。
現存する伝統芸能の中では最古の部類に入ります。神楽は数多くの地域で生まれ、起源が奈良時代までさかのぼるものもあれば、近代になって成立したものもあります。
また、神楽そのもののルーツは奈良時代以前の飛鳥時代や弥生時代までさかのぼると言われています。特に弥生時代では稲作が発展した時代のため豊作を祈る祭事が神楽の源流であるとも言われています。さらに、歴史をさかのぼれば縄文時代の自然信仰から生まれた日本固有の儀式がルーツである可能性も考えられます。
現在の形としての神楽が形成されたのは平安時代からと言われていますが、元となる信仰の歌舞は太古の時代までさかのぼることができる日本固有の芸能と言えます。
神楽は日本固有の宗教的様式を下地に大陸音楽の伎楽や散楽と混ざり合い、現在の形になっていったと思われます。大陸音楽のエッセンスは様々な地域の土着信仰や郷土の持つ訛りに溶け込み日本化していきました。
神楽は「御神楽」と「里神楽」に大きく分類されますが「御神楽」は日本固有の舞踊である「国風歌舞」に含まれる神楽で一般公開されていません。そのため現在「神楽」は「里神楽」を指します。
神楽は芸能研究者本田安次氏によって巫女神楽、菜物神楽、湯立神楽、獅子神楽の4つに分類されます。 地域に根づく神楽は様々な形に姿を変え現在も息づいています。
田楽
「田楽」は平安時代中期に成立した楽(音楽)と舞から成る芸能です。田楽の発祥は田植え前の豊作を祈る「田遊び」から発達したものと言われています。諸説としては他にも、渡来した文化、古来より続く五穀豊穣の舞など様々な説がありますが、その歴史は謎に包まれています。
田楽は元々耕田儀礼の伴奏と舞踊でしたが、時代が経つに連れて芸能としての一面が強くなり、洗練されていきました。
田楽は平安時代に最全盛期を迎え、鎌倉、室町時代では田楽能として猿楽(後の能楽)に影響を与えたほど勢いがありました。一時期は猿楽を凌ぐほどの人気であり、室町時代の田楽法師「増阿弥」は足利義持の後援を受けて活躍しました。
田楽は社会現象になるまでに人気の芸能となり、一世風靡しました。しかし、江戸時代に入る頃には田楽は忘れ去られた芸能で失われた芸能となり、田楽は一度途絶えた芸能となりました。
現在演じられている田楽は「びんざさらを使う踊り系田楽」と「擦りささらを使う田はやし系田楽」と分かれて伝承されています。
田楽を源流とした芸能は現在も残り、当時の香りを漂わせながら演じられています。
雅楽(国風歌舞)
「雅楽」は古来では「うたまひ」と呼ばれており、その名の通り「歌と舞」を指します。雅楽は「管弦」「舞楽」「歌謡」の「楽・舞・歌」の3種になります。
雅楽の舞は「国風歌舞」と「外来舞楽」に大きく分かれます。歌に合わせて舞う国風歌舞は「くにぶりのうたまひ」と呼ばれていました。
国風歌舞は 「日本風の歌舞」を意味するため同じ雅楽でも一線を画するものとなりました。 「御神楽」「大和歌」「久米歌」「誄歌」「東遊」と分かれます。
そのうち御神楽が一般公開されていないため観ることは出来ませんが、他は機会があれば観ることができる可能性があります。
舞楽
「舞楽」は雅楽の一種で「舞を伴った雅楽」を指します。舞楽は大陸から渡来した唐楽・林邑楽・度羅楽・高麗楽・新羅楽・百済楽といった、中国を中心とした朝鮮半島の国やシルクロード周辺の国の広い範囲で種種雑多な諸楽を「楽舞群」としてまとめたものです。雅楽における「大陸系舞楽」に含まれることが多いジャンルです。
平安時代に大成し、1000年以上の歴史を持つ日本最古の芸能の1つです。
舞楽は唐楽を用いる左方、高麗楽を用いる右方に分類されます。左方は赤系統の装束に身を包み、右方は緑系統の装束に身を包みます。大半の演目で用いるのが、襲(かさね)装束で、管楽器を演奏する官方も身につけます。
一般的にどんな時も気軽に舞楽を見に行くことは難しいですが、現在も舞楽は継承され演じられています。
猿楽
「猿楽(申楽)」は能楽の源流で、明治時代以前の能楽の名称となります。また、猿楽は大陸から渡来した「伎楽」「散楽」から影響を受けた芸能で狂言の源流でもあります。
猿楽は田楽や延年に影響を与え、また影響を受けて成長してきました。猿楽の歴史は長く、平安時代までさかのぼるとができます。初期猿楽は散楽の影響が強かったと言われています。猿楽が現在の能と同じ形になったのは室町時代で観阿弥・世阿弥父子によって大成されました。
猿楽能と呼ばれ多くの猿楽座が生まれました。時の権力者に愛されたため長い間パトロンとして支持を受け「能楽」として現代に継承されました。
発祥は伎楽や散楽が民衆に流れ世に広まり、従来の芸能と結びついて猿楽が生まれたと言われています。
白拍子
「白拍子」は平安時代末期から鎌倉時代にかけて起こった歌舞の一種となります。また歌舞を演じる芸人も白拍子と呼んでいました。
白拍子は男装した遊女や子どもが今様や朗読を歌いながら舞ったものを指しますが、男性が舞うこともありました。
白拍子を舞うのは遊女であることが多かったが、貴族の前で舞うことが多かったため見識の高い者が多かったと言われています。
白拍子は歴史上に名を残す名手の名が現代に伝わっており「静御前」や「亀菊」など後の芸能で演目の主要人物になっているものも多いです。また、多くの演者は貴族階級ではなかったことから「儚さ」を持ち、当時の貴族階級や武士階級は儚さに感情移入し、スターとして人気を集めたのではないかとも言われています。
白拍子自体は現在途絶えてしまい見ることはできませんが、能楽や日本舞踊の中に白拍子の脈略は生き続けています。
延年
「延年」は寺院において大法会の後に僧侶や稚児によって演じられた日本の芸能です。
延年は単独の芸能ではなく舞楽や散楽、風流や郷土芸能の歌舞音曲に猿楽、白拍子、小歌な平安中期当時の貴族的芸能と庶民的芸能が雑多に混じったものの総称となります。演じる側も専門化して「遊僧」「狂僧」と呼ばれ ました。
鎌倉時代から室町時代にかけて盛んに行われた芸能でしたが、室町時代以降は衰退していきました。
日本の芸能は神道系と大陸系に加えて仏教系のものがあり、延年は興福寺や延暦寺など大きな寺院の大法会の後に演じられたことから仏教とも関連深いがある舞踊です。
延年が行われた舞を「延年の舞」と呼びます。現在延年は44曲現存し演じられています。
- 毛越寺(毛越寺の延年)… 岩手県西磐井郡平泉町
- 白山神社(小迫の延年)… 宮城県栗原市
- 安久津八幡神社(安久津八幡神社の延年の舞)… 山形県東置賜郡高畠町
- 輪王寺(輪王寺の延年の舞)… 栃木県日光市
- 箱根神社(箱根延年)… 神奈川県足柄下郡箱根町
- 日吉神社(根知山寺の延年)… 新潟県糸魚川市
- 長滝白山神社(長滝の延年)… 岐阜県郡上市
- 厳島神社(厳島神社)… 広島県廿日市市
- 隠岐国分寺(隠岐国分寺蓮華会舞)… 島根県隠岐郡隠岐の島町
多くの延年は失われてしまいましたが、能の中にそのエッセンスは結びついています。
曲舞
「曲舞(くせまい)」は南北朝時代から室町時代にかけて流行した舞踊になります。
能や歌舞伎の原型と言われている「幸若舞(こうわかまい)」の母体でもあり、現在伝わる伝統芸能に大きな影響を与えた舞踊になります。
曲舞の特徴として、ストーリーをともなう物語に韻律を付して、節と伴奏をともなう歌舞となります。
鼓に合わせて謡いつつ、扇を持って舞うものとなります。 室町時代以降は衰退し、現在は地域の芸能にごくわずかに爪痕を残す程度のものになっています。
上方舞
「上方舞(かみがたまい)」は江戸時代中期から末期にかけて上方(京、大阪)で発生した舞踊の一種になります。
お座敷で発生した舞で特に地唄に振りを付けて舞った「地唄舞」が有名です。お屋敷で舞われることを前提としたため、ほこりを立てないように抑制された動きとなります。
お座敷で発展した舞踊で、舞の特徴として「はんなり」としていて言葉の通り、落ち着いた華やかさがあり、上品に明るく陽気印象があります。
女性の心理を表現した演目が多く、深い心情を舞で表現をしています。 上方舞には代表的な流派として「山村流」「楳茂都流」「吉村流」「井上流」の4流派があります。
現在でも継承される日本舞踊の1つとなります。
念仏踊り
「念仏踊り」は念仏を唱えながら踊る舞踊の一種で、全国に様々な様式で分布しています。
念仏踊りの起源は古く平安時代初期にまでさかのぼります。
踊り手と歌い手が分かれているものと、自ら念仏を唱えながら踊るもので分類されます。
前者は菅原道真が讃岐国司を務めた時に行った「雨乞いの踊り」が起源とされています。
後者の踊念仏は平安時代に空也上人が始め、鎌倉時代に一遍上人によって広められたと言われています。
現在でも念仏踊りは行われており香川県綾歌郡綾川町滝宮では8月25日に「滝宮の念仏踊」は念仏踊りのルーツとして国の重要無形民俗文化財に指定されています。
他にも長野県下伊那郡阿南町の「和合念仏踊り」、京都の「六斎念仏踊り」が国の重要無形民俗文化財に指定されています。
盆踊り
「盆踊り」は盆の時期に死者を供養するための行事、またその行事内で行なわれる踊りになります。
盆踊りには2種類あり誰でも踊りに参加できるタイプと、主に見せるために限定された踊り手が踊るタイプがあります。
前者は現在も一般的に地域の夏祭りでよく見かける事が多いです。特徴として広場の中央にやぐらを立て、やぐらの周囲を回りながら太鼓と笛、鉦による囃子に合わせて音頭を踊る形式を取ります。現在は囃子の代わりに録音された音源を流すこともあります。
盆踊り地域に密着して発展してきたという特性上、ご当地特有の音頭が数多く生まれました。
お盆の時期に行われることが多いですが宗教的な意味合いは薄く、農民や庶民の娯楽として当時から愛されていました。
江戸時代初期に盆踊りは最全盛期を迎えました。明治から大正にかけて一時的に衰退しましたが、大正末期では多くの地域で復活を望まれ、再び盛んになっていきました。
現在では夏の風物詩として全国各地で盆踊りが開催されています。
また、盆踊りを基にポップスやロックに合わせて踊る創作盆踊りも盛んに行われており、新しい価値とともにブームを起こしています。
歌舞伎舞踊
「歌舞伎舞踊」は、歌舞伎演目のなかに含まれる劇中舞踊やそれが独立したもの、歌舞伎演目の内に舞踊的要素の強いもの、独立した舞踊演目の内に初演が歌舞伎役者によるものであるものを総称して呼ぶものを指します。
歌舞伎舞踊では舞踊のことを所作事(しょさごと)とも呼んでいます。所作事を演目として確立させた役者には初代瀬川菊之丞と初代中村富十郎が挙げられます。
歌舞伎舞踊は江戸時代に多くの役者や座によって創作され、現代にも数多くの演目として継承されています。
派手な衣装と大掛かりな演出に迫力のある舞踊は歌舞伎の醍醐味となっています。役者にとって見せ所であり、観客が楽しみにしている要素の1つでもあります。
歌舞伎舞踊は現在も愛される舞踊の一つとして現代でも演じられています。
演劇
日本の伝統芸能において「演劇」は古くから愛される演目の1つでした。
物語性のある芸能は神楽や舞楽、田楽や猿楽と多くの芸能にも見られましたが、日本の芸能において花開いたのは観阿弥・世阿弥父子による「能楽」の大成です。
観阿弥は田楽のもつ面白さに曲舞の旋律を取り入れ、大和猿楽を総合的ドラマとして創り出しました。魅せ方や演出など舞台芸術としての土台が作り出され体系化されていきました。
観阿弥・世阿弥の猿楽能は六代将軍足利義教に評価されました。時の権力者をパトロンに猿楽は浸透していきます。
能楽の大成は世阿弥により「夢幻能」が完成されたことで成されました。夢幻能は死者が中心となった能で「死者の世界からものを見る」という特徴があります。物語性が強く、写実性が強い現実能とは異なる神秘的な世界観に当時の人は傾倒していきました。
能楽によって発展した物語性を強めた演劇は、江戸時代には歌舞伎、浄瑠璃でも重要視されました。
多くの劇場で演じられ演劇は庶民にも愛されてきました。また、物語を浮世絵にしたり、書籍にしたりと多くの文化にも影響を与えていきました。
物語性は後の現代演劇や映画、ドラマ、アニメ、漫画と多くの分野の発展に貢献し、発展させていきました。
日本の芸能史において演劇は大きな影響を持ち、文化的にも歴史的にも重要な芸能となります。
能楽
「能楽」は「式三番(翁)」「能」「狂言」を総称する言葉で1881年(明治14年)に能楽社の設立を機に能楽と称されるようになりました。
江戸幕府の式楽の担い手であった猿楽の役者たちは文明開化により幕府の保護が失われ失職し、猿楽という芸能自体の存続危機を迎えました。
これに対し岩倉具視を中心とする政府要人や明治時代の貴族階級である華族によって猿楽を継承する組織「能楽社」が設立され、現在まで継承されることになりました。
能楽は観阿弥・世阿弥によって大成された猿楽と、猿楽から滑稽さを洗練させ派生した狂言、「能にして能にあらず」と言わしめた式三番(翁)によって構成される総称のため、現代では「能楽」よりも「能」「狂言」「翁」と呼ばれることが多いです。
また、翁は能の演目の1つに組み込まれて紹介されることが多いですが現代においても翁は特別なときしか演じられず、「特別な能」という立ち位置で伝承されています。
能
「能」は観阿弥、世阿弥によって大成された猿楽を指すものです。猿楽の滑稽さの特性を持つものは狂言と呼ばれています。
能楽のうち超自然的なものを題材した歌舞劇のことを指し、比較的高尚なものです。また、能は観る人にある程度の教養が求められることからも敷居の高い芸能になります。その敷居の高さが能の衰退への要因の1つとなり、能楽を身近にする様々なイベントが組まれています。
能楽は2008年にユネスコの無形文化遺産に登録されています。
四拍子(笛、小鼓、大鼓、太鼓)による囃子と地謡にシテ方、ワキ方による謡と舞によって構成されています。また、能は超自然的なものを題材としたものでは能面を付けて謡と舞を演じます。
能は分業制でシテ方、ワキ方、囃子方それぞれに流派が存在します。能楽の流派は大和猿楽四座と土着能に分けられます。大和猿楽四座は「観世座」「宝生座」「金春座」「金剛座」になります。また江戸期に金剛座から分かれた喜多流の5つを併せて四座一流と呼びます。
狂言
「狂言」は能と同様に猿楽から発展した芸能になります。
猿楽は元々伎楽や散楽から影響を受け発生した芸能となります。そのため猿楽には滑稽な笑劇や物真似が含まれていました。狂言はその滑稽味を洗練させたものとなります。
道理に合わない物言いや飾り立てた言葉を意味する仏教用語の「狂言綺語(きょうげんきご)」が狂言という名称の由来になります。
狂言も能と同じく役割ごとに流派があります。代表的な流派として「大蔵流」「和泉流」「鷺流」の3派ありましたが現在は「大蔵流」と「和泉流」の2流派のみが能楽協会に所属しています。
狂言の特徴として写実的表現が目立ちます。議題には風刺や失敗談など滑稽さのあるものを主に扱います。
歌舞伎
「歌舞伎」は戦国時代の終わりから江戸時代の初頭に発生し、最初は京で流行しました。出雲阿国を起源とし、遊郭で流行したことが始まりです。
歌舞伎は江戸時代において広く愛される芸能となり多くの江戸文化と結びついて大成していきました。
歌舞伎の演目は芝居であり、歌舞伎狂言と歌舞伎舞踊に分けられます。されに歌舞伎狂言は時代物と世話物に大別されます。歌舞伎は囃子に合わせて役者が演じる形をとります。
また、役者には花形のスターがいて当時の浮世絵には歌舞伎役者が多く描かれていました。
歌舞伎は舞台芸術として多くの小道具や黒子による裏方を利用した演出を行いました。舞台を栄えさせる演出によって聴衆を魅了し、歌舞伎は多くの人々に愛されていました。
歌舞伎は演出に注力しており、舞台装置や和楽器による自然や感情の表現、質の高い物語、舞台を彩る装束や装飾、歌舞伎役者の個性など多くの要素を組合せた総合芸術でもありました。
歌舞伎音楽は長唄、義太夫節、常磐津節、下座音楽によって彩られました。日本音楽においても歌舞伎は発展に影響を与えました。 当時江戸で演奏された江戸囃子や神楽などもからも影響を受け、江戸時代の音楽は歌舞伎音楽によって発展をし続けていきました。
現在も歌舞伎は日本の代表的な伝統芸能として演じられています。 歌舞伎役者は歌舞伎だけでなくTV番組に出演したり、俳優として活躍したりと活動は多岐にわたっています。
歌舞伎にはを鑑賞すると「〇〇屋!!」と後ろの方から掛け声が飛んでくることがあります。これは「屋号」といって歌舞伎役者の一家や一門によって決まっている名称です。
- 「成田屋」… 市川海老蔵、市川團十郎
- 「高麗屋」… 松本幸四郎、市川染五郎
- 「音羽屋」… 尾上菊五郎、尾上菊之助
- 「澤瀉屋」… 市川猿之助、市川猿翁
- 「中村屋」… 中村勘九郎、中村七之助
- 「大和屋」… 坂東玉三郎、坂東彌十郎
屋号は108種類あり、屋号ごとに歴史があります。また芸風も屋号によって異なり歌舞伎の個性の1つとなります。
人間国宝に選ばれた坂東玉三郎氏は鼓童の演出家として日本音楽をベースとした新しい創作和太鼓を生み出したり、 市川猿之助氏による漫画ワンピースを題材にしたスーパー歌舞伎など多くの分野で新しい価値を創出しています。
人形浄瑠璃・文楽
「人形浄瑠璃」は三味線を伴奏楽器として太夫が詞章(ししょう)を語る音曲・劇場音楽を指します。詞章が単なる歌ではなく、劇中人物のセリフやその仕草、演技の描写をも含み、語り口が叙事的な力強さを持ちます。そのため浄瑠璃は口演することを「歌う」ではなく「語る」と言い、浄瑠璃系統の音曲を語り物と呼びます。
「文楽(ぶんらく)」は人形浄瑠璃と同じく人形劇で、 浄瑠璃を語る太夫、三味線、人形遣いによって演じられる演劇で、4代目植村文楽軒によって設立された人形浄瑠璃文楽座が起源となります。 文楽という名称は人形浄瑠璃が廃れた江戸時代後期に文楽座によって再び盛んになったことから呼ばれるようになった名称が始まりです。
人形浄瑠璃は人形劇が主の演劇ですが、音楽性も優れており、特に三味線音楽の発展に貢献しました。また、人形芝居や浄瑠璃、三味線音楽の複合芸術であるため当時は新興芸能として一世を風靡しました。
一時期は歌舞伎を凌ぐ人気でしたが、江戸後期には歌舞伎の人気に押され廃れ始め、古典芸能という立ち位置になっていました。そんな時代の中で初代植村文楽軒によって再び人形浄瑠璃の系統を引き継いだ演劇が注目され、芸能として再建した歴史を持ちます。
人形遣いによって操られる人形は生きているようで表情豊かです。また、人形は三人で同時に一体の人形を操作することが特徴となります。 人形遣い三人の役割は、主遣い、左遣い、足遣いです。
人形浄瑠璃は太夫では竹本座を大坂に開いた竹本義太夫、作者では近松門左衛門や紀海音といった優れた才能によって花開いた芸能でした。
人形浄瑠璃の特徴は男性によって演じられる、太夫、三味線、人形遣いの「三業(さんぎょう)」で成り立つ三位一体の演芸になります。太夫は浄瑠璃語りのことで、1人で物語を語ります。
現代では人形浄瑠璃と文楽はほぼイコールとして認識されています。人形浄瑠璃は衰退し、明治の初めに「彦六座」と「文楽座」の二座体制になっていました。そして彦六座が解散したことで文楽座のみが人形浄瑠璃を演じることになりました。
現在もこの流れを引き継いでいることから文楽=人形浄瑠璃となっています。
音曲
日本の伝統芸能は原則として「歌」と「舞」が重要な要素となります。ほぼすべての伝統芸能には必ず「歌」「舞」が含まれ演じてきました。
そんな中、歌と舞を盛り上げる要素として「音曲」が発展していきました。雅楽の管弦では音だけによる楽曲形式が採用されていますが、それ以外の芸能は歌と舞が含まれています。
楽器だけによる演奏は近代以降に発展し、純邦楽として成立したものが多いです。
伴奏音楽であり裏方であった和楽器は、現代では音楽的要素が評価され音曲自体が再評価されています。そして現代において新しい楽曲が作られ続けているため、現在進行形で発展をしている芸能でもあります。
雅楽(管弦)
飛鳥時代に大陸より渡来した雅楽のうち器楽(楽器)のみの演奏を「管弦」と呼びます。管弦に分類されている楽曲にも舞が存在していたものもありました。現代における雅楽のイメージは管弦の演奏が強い傾向にあります。
管弦は「龍笛」「篳篥」「笙」による「三管」、「楽箏」「楽琵琶」による「二絃」、「鉦鼓」「釣太鼓」「羯鼓」による「三鼓」の8種類の楽器を16名編成で演奏します。
管弦の有名曲として「越天楽」や「海青楽」「仙遊霞」などがあります。 越天楽は雅楽の中では最も有名で元日ではTV番組を通してよく聞かれている楽曲でもあります。そのため雅楽の音は日本人にとって馴染みがあり、日本の音として認識されている伝統音楽でもあります。
雅楽は平安貴族によって作られた日本固有の音楽にして最古の芸能となり、長い歴史を持つ文化でもあります。
現在でも管弦は演奏され、1000年以上の歴史を現代に継承し続けています。
純邦楽
「純邦楽」とは日本の音楽のことを指します。時代によって定義が変わる総称でもあります。
昔は「邦楽」と称されていましたが、日本人によって作られた楽曲全般を指すため近代に作られたクラシックや歌謡曲、ポップスも含まれるため、伝統楽器を使用した音楽を「純邦楽」と区別して呼ぶことが多いです。
世界的に見ると日本固有のワールドミュージックとなります。
純邦楽には和楽器を使用した曲が当てはまり、箏曲、三味線曲、尺八曲が対象です。
しかし、囃子を使用した民謡や創作和太鼓による楽曲は純邦楽に含まれていない傾向にあります。
純邦楽の定義は今後さらに変化していくと思われます。
箏曲
「箏曲」とは箏、つまり「こと」の音楽の総称となります。特に近世に発達した俗箏による音楽を指します。大きく生田流と山田流の2つの流派に分かれます。
箏曲の歴史は古く、起源は戦国末期から江戸時代初頭に生まれた筑紫箏を起源とします。筑紫箏は寺院に伝承される雅楽や歌謡、明にて盛んだった琴から箏曲は発展し筑紫箏として芸能に発展しました。
近世では現代音楽家たちに箏が注目され西洋音楽のアプローチも加わり現代邦楽として新しい価値を持って演奏されています。
琵琶楽
「琵琶楽」は琵琶を使用した音楽の総称となります。琵琶の歴史は飛鳥時代から奈良時代までさかのぼります。大陸から渡来してきた琵琶は日本の文化と融合し「琵琶楽」を形成しました。
琵琶楽の中でも有名のものは琵琶法師によって歌われた平家物語で、鎌倉時代の始めに生仏という盲目音楽家が始めたとされます。
現代においても琵琶は音楽の中で使用されています。古典的なスタイルでの演奏だけでなく、現代音楽にも用いられています。
胡弓楽
「胡弓楽」は江戸時代初期に文献に登場する和楽器で、和楽器の中では新しい部類に入ります。胡弓によって作られた音楽を「胡弓楽」と呼び、盲目音楽家達によって発展していた芸術音楽文化の中で花開いた文化になります。
胡弓楽は地歌、箏曲と合わせて「三曲」と呼ばれ、発展していきました。上方で栄えた文化のため義太夫節でも胡弓は使われることが多いです。
尺八楽
「尺八楽」は尺八による音楽を指します。尺八は大陸から渡来した楽器であると言われていますが、伝来してから空白の期間が空き、鎌倉時代から江戸時代にかけて現代の形が形成されました。尺八楽はその中で発展してきた音楽となります。
尺八は法器としての意味合いが強く虚無僧のみが演奏するものとされ、幕府の法度によって保障されていました。明治時代以降に虚無僧以外のものも広く演奏するようになった楽器になります。
その後尺八は虚無僧を師に奏者を増やし、尺八楽は大成されました。現代では現代音楽にも使用され、尺八は多くの愛好家を生む楽器となりました。
三味線楽
「三味線楽」は三味線による音楽を指します。三味線は戦国時代に琉球から伝来したものと言われており、比較的新しい部類の和楽器になります。
三味線は江戸時代に庶民に広く普及し、多くの地域で演奏されました。浄瑠璃や歌舞伎、民謡では欠かせない楽器であり、三味線楽は広く発展していきました。
特に有名な三味線楽として「津軽三味線」が挙げられます。本来は津軽地方の民謡伴奏を指しましたが現代では独奏を指すことが多いです。テンポが早く音数が多いという特徴があります。
三味線は現代においても広く浸透している和楽器の1つで、多くの奏者を生んでいます。現代音楽においても広く使用されている楽器で純邦楽の世界だけでなく、ポップスやロックといったジャンルとクロスオーバーし、新しい価値を持つ楽器として使用されています 。
浄瑠璃節
「浄瑠璃節」は江戸初期以降に文楽の太夫の口演が○○節と呼ばれるようになり、その派生として義太夫節・河東節・一中節・常磐津節・富本節・清元節・新内節・宮薗節(薗八節)の8流派が存在しています。
最も有名なのは「義太夫節」で、国の重要無形民俗文化財にも指定されています。豪快華麗な曲節が特徴です。文楽の中でも義太夫節は文化を発展させた高い影響力を持っています。
三味線音楽の一種である常磐津節は太夫と三味線で構成されています。常磐津節も重要無形民俗文化財に指定されています。
浄瑠璃節は同じ様式の文楽をそれぞれ独自に発展させ固有の芸能として昇華させた節の集合体のような形式をとっています。
また、人形劇をメインとする演劇芸能ではありますが、伴奏音楽に特徴があるため音曲としても愛されている芸能になります。
囃子
「囃子(はやし)」は四拍子(笛、小鼓、大鼓、太鼓)からなる伴奏音楽で謡や能を「はやしたてること」から囃子と呼ばれています。
謡に舞人なしで四拍子のみを用いるものを番囃子といい、舞う部分に舞人なしで行う番囃子を居囃子と言います。所作や舞を加えたものは舞囃子と呼ばれています。
能だけでなく歌舞伎や神楽でも囃子は使われ、日本音楽の中で最も古い歴史を持つ音曲の1つとなります。
囃子の中でも祭で使われる「祭囃子」が有名で「おはやし」「はやし」と呼ばれることが多いです。一般的に囃子は祭囃子を指すことが多く、最も浸透している形態となります。
祭囃子は各地域の祭に密着していて地域性や郷土の訛り、生活習慣から発展してきた音楽のため地域性が強いという特徴があります。神楽や民謡とともに地方で独自の芸能として変化していき、同じ祭囃子でも地域ごとに異なることがほとんどです。
関東だけでも石岡囃子、新川囃子、葛西囃子、神田囃子、江戸囃子、目黒囃子、羽田囃子、秩父屋台囃子、品川拍子、佐原囃子、重松囃子
小田原囃子、西三ツ木ばやし、排禍ばやし、真鶴囃子、岩囃子など様々な祭囃子が存在します。
落語や寄席で使われる「寄席囃子」は「興行の習俗に関わる囃子」「出囃子」「受け囃子」「はめもの」「色物の囃子」に大別されます。
寄席囃子の演者は下座に控えることから「下座音楽」とも呼ばれます、また演者のことを下座や囃子方と呼びます。
下座音楽は四拍子に加え三味線、大太鼓、当り鉦など多くの和楽器をしようします。歌舞伎音楽では下座音楽は演出面で重要な役割を担い、多くの演奏技術が生まれました。
囃子は日本の芸能における伴奏音楽として発展していきました。現代においても囃子は演奏され継承され続けています。
唄
日本の芸能において「唄」は重要視されてきました。日本音楽のほぼ全てに「唄」は存在しています。伴奏に合わせて唄うことで物語性を強めています。
唄は旋律に伴って「うたう」ものを指します。起源は古く旧石器時代にまでさかのぼるという見解もあるほど長い歴史があります。
仏教音楽である声明に琵琶音楽とともに栄えた詩吟、能楽の謡、浄瑠璃の語り、三味線音楽の長唄、地方で発展した民謡と広がっていきました。 日本の芸能において唄もまた舞や音曲と同じく重要なポジションとして文化を形成していったのです。
地唄
「地唄」は江戸時代に京や大阪を中心に栄えた三味線音楽で、江戸唄に対する地(地方)の唄を指します。盲人音楽家が作曲、演奏、教授した歴史があり、法師唄とも呼ばれています。
長唄とともに「歌いもの」を代表する日本の代表的な芸能の1つです。
三味線は伝来以降急速に広がっていきました。地唄は江戸初期には京や大阪を中心に演奏されていました。盲目音楽家による作曲が主であり、音楽の特徴として視覚的な内容ではなく、心情的な内容が多い特徴がある。
地唄は元禄時代には江戸で演奏される歌舞伎舞踊の伴奏音楽として、長唄へと発展していきました。
荻江節
「荻江節」は長唄を母体として発展した三味線音楽になります。一中節、河東節、宮薗節と並んで「古曲」と総称されます。国の重要無形民俗文化財に指定されており、荻江節保存会を中心に現在も活動しています。
元々は長唄として荻江霧友によって演奏されていたが、次第に舞台から離れ吉原を中心とした座敷芸として独自の芸風になり、一つの流派として荻江節は大成されました。
芸風は長唄と比べると地味で渋く内省的です。また、囃子を使わない構成になります。
端唄
「端唄」は長唄よりも短い歌謡全般の総称となります。1920年代まではうた沢や小唄も端唄と呼ばれていたことから、様々な文献において解釈の違いから細かな部分で名称が統一されていない傾向にあります。
端唄は三味線がぜいたくなものとして見なされていた天保の改革の後に流行しました。
端唄は長唄と違って短い曲のため、長らく三味線を触っていなかった奏者がさらいやすいことが流行の発端となりました。
小唄では爪弾きであるのに対して端唄は撥を使用して音を奏でます。
小唄
「小唄」は端唄から派生した俗謡になります。一般的には江戸端唄の略称で、明治から大正にかけて小唄という名称が定着しました。
端唄は撥を使った演奏に対して、小唄は爪弾きになります。実際は爪ではなく人差し指爪先の肉で弾きます。
端唄とは節回しに差異があり、小唄は技巧的に唄う特徴があります。
4畳半程度の狭いお座敷での演奏のため、音のボリュームを下げるために爪弾きでの演奏が生まれました。
基本的に小唄は鳴り物がなく三味線だけで演奏されます。
都々逸
「都々逸(どどいつ)」は江戸時代末期に寄席芸人都々逸坊扇歌によって大成されました。口語による定型詩七・七・七・五の音数律に従う形を取ります。
現代では寄席にて都々逸が歌われないことは珍しくなくなったが、昭和の中頃までは寄席の中では欠かせないものでした。即興の節回しも行われており、比較的自由に歌われていました。
民謡
「民謡」とは主に口承によって受け継がれた歌の総称です。民謡は日本だけの芸能ではなく世界中の国や民族間で発生しています。
民謡は狭義には日本各地での口承歌を指します。童歌や子守唄、労働歌、祭祀・年中行事の歌など幅広い歌が含まれます。
楽器を使わずに歌だけで歌われるものも多く、楽譜はなく原則口頭による伝承によって現代まで受け継がれています。日本語の発声、韻から構成されており「日本固有の音楽」の原点とも言えます。
明治から大正にかけて新たに創作された民謡もあり、それらは「新民謡」もしくは「創作民謡」と呼ばれています。
民謡を取り入れた音楽は現代でも多く演奏されており、民謡は現代でも愛される音楽の1つとなっています。
声明
「声明(しょうみょう)」とは仏典に節をつけた仏教音楽のひとつで、儀礼に用いられます。日本では、梵唄(ぼんばい)・梵匿(ぼんのく)・魚山(ぎょざん)とも言います。
日本の歴史は仏教とともに発展してきました。日本人の宗教観や価値観、美意識は仏教の伝来から日本固有の発展とともに育まれ文化を形成してきました。
日本の声明は陰陽五行説に基づいた中国の音楽理論が基礎になっています。日本最古の声明の記録は754年に東大寺大仏開眼法要のときに声明を用いた記録があり、奈良時代には声明は多くの寺院で行われていたと言われています。
平安時代初期に最澄、空海によって大陸の声明が伝えられ天台声明、真言声明の基となりました。天台宗や真言宗だけでなく多くの宗派で声明は存在し、現在も宗派ごとに継承されています。
現在でも声明は伝承されていますが、戦乱や明治期の廃仏毀釈により、寺院が荒廃したことや、荒廃により僧侶が離散するといった様々な条件が重なって、多くの流派が廃絶していきました。
代表的な流派として「天台声明」「真言声明」「本相応院流」「新相応院流」醍醐流「中川大進流」「などが挙げられます。
詩吟
江戸時代後期、漢詩を素読する際に、独特の節を付すことが行われたのが、今日の「詩吟」の直接のルーツと言われています。元々は 一部の私塾や藩校において行われていたことが全国的に広まったことで詩吟が生まれました。
吟詠(吟ずること)の対象は主に「漢詩」ですが和歌や俳句、新体詩を吟ずることもあります。基本的に長い詩は好まれず七言絶句が一般的です。
詩吟は1人で吟ずるのがスタンダードで「独吟」と呼ばれています。複数人で連続して行う「連吟」や声を合わせる「合吟」という形式もあります。
詩吟は現代も盛んに行われており、著名な歌い手も多いです。詩吟揖水流2代目家元である「石原詢子」やお笑い芸人として詩吟の存在を世に広めた「木村卓寛」など数多くの歌い手が活躍しています。
今様
「今様(いまよう)」とは平安時代中期に発生した歌曲の一形式で、神楽歌(かぐらうた)・催馬楽(さいばら)・風俗歌(ふぞくうた)など以前から存在していた歌(古様)に対して,当代最新(今様)の流行歌という「現代風・今風」の意味があります。
平安末期に後白河法皇が愛好し、熱中しすぎて喉を痛めたことが史書に記録されています。また法皇自らが編集した今様歌謡の集成「梁塵秘抄」が現代に伝わっています。
歌詞が、7、5、7、5、7、5、7、5で1コーラスを構成するのが特徴で、様々な歌詞が生み出されました。また、今様の伴奏として多くの曲が生み出されました。
中でも有名なのが雅楽の「越天楽」のメロディーに歌詞を付けた「越天楽今様」があります。雅楽の楽器を伴奏で使用する際は雅楽の謡物にカテゴライズされます。またこの曲に舞を付けたものを「今様舞」と呼びます。
平安時代における最新の歌謡曲であった今様は後白河法皇の努力も実り、文化が歴史の闇に葬られることはなく史料として現代に残りました。また、現代でも演じられています。
歌
日本人ははるか昔より「言葉」を重要視してきました。言葉には魂が宿る「言霊」を信じてきました。日本人は古来より言葉の持つ霊力を使い、己の感情の表現をしてきました。
「歌」は日本人にとって長い歴史を持つ言葉による感情の表現芸術であり、日本人の美意識を映し出す古からの手紙でもあります。
「歌」は大きく分けて「和歌」「俳諧」「琉歌」に分類されます。「歌」を通じて太古の人々の抱いていた感性に触れることができます。
現代でも「歌を詠む」文化は継承されています。現代で発展している詩での感情や自然の表現は先人が残した歌から生まれたものも多く、日本語の中に歌の表現は息づいています。
長歌
「長歌(ちょうか)」は5文字7文字の五七を「五七、五七、五七…五七、七」と3回以上繰り返し、最後に七音加えて締める形式のものを指します。
「万葉集」では多く見られる形式ですが、後の時代に制作される「古今和歌集」では作られなくなっている形式のため飛鳥時代から奈良時代に詠われていた形式となります。
「日本書紀」でも見られる形式のため古代の歌謡から発祥したと言われています。 平安時代からは「短歌」が主流となり衰退をしていきました。
短歌
「短歌(たんか)」は和歌の形式の一つで五・七・五・七・七の五句体の歌体のことを指します。短歌は万葉集の初期の中で見られる形式です。長歌や旋頭歌が主流だった時代が終わり、短歌は近代でも詠まれる主流の形式となりました。
奈良時代より続くため短歌は時代ごとに呼び名は変わってきました。奈良時代では長歌の反歌として短歌であり、平安時代以降は漢詩に対して短歌と呼び、近代では新体詩に対して再び短歌という名称が使われています。
短歌は近代短歌として明治・大正時代に栄えたことから現在も愛好家が多い歌となります。
旋頭歌
「旋頭歌(せどうか)」は和歌の形式の一つで奈良時代に繁栄を極めた歌です。
「古事記」「万葉集」「日本書紀」に作品が見られます。
五七七を2回繰り返した6句からなり、上三句と下三句で詠み手の立場が異なることが多い形式です。旋頭歌は現代で言うフリースタイルラップのような相手ありきの歌だったと思われます。
上三句だけ、または下三句だけの歌を「片歌(かたうた)」と言います。
連歌
「連歌」は和歌の中では新しい形式の1つで、鎌倉時代に生まれ、南北朝時代から室町時代に大成されました。
連歌は多くの人に愛され、多くの歌が現代に残されています。また、連歌は和歌から強い影響を受けている形式となります。
歴史的には、和歌の上の句(五七五)と下の句(七七)をそれぞれ別人が詠むという遊戯的な試みが連歌の起源となります。
連歌は「複数の詠い手」が連作する形式となります。連作の概念を「付合(つけあい)」と呼び、連歌を理解する上で最も重要な要素となります。一体感を重要視し、芸術性の高い歌になります。
また連歌では歌の展開や変化が重要視され、調和されすぎている歌は平凡で面白みのない作品になってしまう。
連歌は江戸時代に栄える「俳諧」の基盤となりました。
連歌は現代でも継承されている歌の形式ではありますが、俳句に比べれば少ない傾向にあります。
俳諧
「俳諧」は江戸時代に栄えた歌の形式で、正しくは「俳諧の連歌」または「俳諧連歌」と呼びます。その名の通り「連歌」から分岐して生まれた形式です。遊戯性を高めた集団文芸であり、発句や連句といった形式の総称でもあります。
専門的に俳諧に携わる人のことを「俳諧師」と呼びます。
現在世に知れ渡っている「俳句」は明治時代に成立したもので、源流は松尾芭蕉が独自性を高めた「発句」が源流となります。
俳諧は「滑稽」「戯れ」「機知」諧謔」などの意味が込められています。室町時代に大成した和歌の連歌をもっと気軽に楽しめるようにユーモア性を上げた歌を俳諧連歌(または俳諧の連歌)と呼ばれていました。
俳諧連歌の大成は江戸時代に起こり、連歌をしのぐほどの人気を当時生みました。
発句
「発句」は松尾芭蕉によって独自性を高めた俳諧の中でも「単独でも鑑賞に堪える自立性の高い発句」すなわち地発句を指します。
発句は明治時代以降に成立する俳句の源流で形としては現在の俳句と近い形式をとっています。
発句には感情を比喩した言葉や美しい四季折々の日本の言葉が多く使用されています。多くの日本人が忘れてしまった日本の言葉を思い出させてくれる詩としても人気があります。
連句
「連句」とは歴史的な視点で見ると「俳諧の連歌」のことを指します。
形としては五七五の句の後に七七の句を、さらに五七五・・・と交互に付けていき、三十六句(歌仙)、五十句(五十韻)、百句(百韻)等よりならしめ、総数の違いで数十種に別して名称があります。
連句もまた美しい日本語を使用した詩となります。特に自然の表現や俳諧師の感性が言葉に現れているため当時の日本人の美的センスや美意識を知る貴重な史料にもなります。
俳句
「俳句」は明治時代以降に成立した歌の形式です。正岡子規によって発句を個人の独創性を重視させたものを俳句として成立させました。
俳句は季語(有季)及び五・七・五(十七音)を主とした定型を基本としています。俳句には美しい言葉が使われるため教養としても人気があります。
また近代では季語を使用しない俳句も多く、様々な人が気軽に楽しめる歌となりました。五七五の歯切れのよいリズムも日本人にとって馴染みがあり歌謡曲の歌詞にも五七五の形式は使用されていることも多く見られます。
俳句は世界最短の定型詩の1つとも言われています。17文字という少ない文字数で自然と感情を織り交ぜたメッセージ性のある詩を詠む俳人の作品は高い芸術性を持ち評価されています。
琉歌
「琉歌」は奄美群島・沖縄諸島・宮古諸島・八重山諸島に伝承される叙情短詩形の歌謡を指します。また奄美群島では「島唄」と呼称されています。
八音を中心に、五音・六音・七音を標準とする定型詩になります。
八八、八六の三十音の定型詩からなる「短歌」と七五、八六、又は五五、八六の形式からなる「仲風」による「短歌形式」
八八八八の連続音で、末句は六音の「長歌」、八八の連続音で、末句は六音の「つらね」、八八の連続音で、八音の間に囃子が入る「木遣り」、七五の連続音で、和歌の風潮に似る「口説(くどぅち)」による「長歌形式」に分けられます。
演芸
日本伝統芸能には「演芸」と呼ばれる芸があります。講談や落語のような物語を語るものから奇術や太神楽のような大道芸まで幅広くあり、その数は多く、中には史料には残されていないものも多くあると思われます。
お笑い芸人の起源であり、現代のコメディアンに通じます。宴会芸も演芸を源流とするものもあり、出し物として栄えた文化でもあります。
紙切り、曲ゴマ、写し絵、花火といった大道芸も長い歴史を持ち伝統芸能として現在でも演じられています。
花火においては現代においても夏の風物詩として人気を誇るものとなっています。
演芸は日本の文化を語る上で切っても切り離せない芸能となります。
講談
「講談」とは日本の芸能の1つで、高座に置かれた釈台の机の前に座り、張り扇を叩いて調子を取り、歴史にちなんだ読み物を読み上げげます。
現代のお笑い芸人の原点の1つで、歴史は長く戦国時代の御伽衆が起源であると言われています。
寄席演芸としての講談の原型は江戸時代の大道芸の1つである辻講釈からきていると言われています。
話芸として確立し、言葉1つで客席を盛り上げる講談は人気があり、他の芸能と交流しながら文化を発展させていきました。
現在も講談師は現存し積極的に活動をしています。また落語と比べて女性の講談師が多く、若手の講談師は女性が圧倒的に多い状態となっています。
落語
「落語」は江戸時代に成立し、現在でも伝承されている話芸芸能の1つです。最後に「落ち」がつくことが落語の特徴です。
落語は人口増加する都市において、市民、大衆のための芸能として成立した歴史があります。落語は現在では専門職である「落語家」によって演じられることが多いです。
また現代の芸人の祖にも近い芸能で、日本の現代芸能において大きな影響を与えました。
語りは1人で何役も演じ、身振り手振りや扇子や手拭いを使ってあらゆるものを表現する演芸でもあります。代表的なものに「蕎麦をすする」「化粧をする」「物真似」などがあります。
落語には「江戸落語」と「上方落語」の流れがあり、演目の内容や落ち、演出などが違う傾向にあります。
落語の原点をさかのぼると竹取物語や今昔物語、宇治拾遺物語に収められている説話まで戻ることが出来ます。
滑稽な話は太古の時代から存在し、滑稽な芸能として狂言が成立したように、昔から日本人は「お笑い」が好きな民俗でした。
浪花節(浪曲)
「浪花節」は明治時代初期から始まった演芸で「浪曲」とも呼ばれています。
三味線を伴奏に独特の節と語りで物語をすすめる話芸芸能になります。講談、落語に並び浪花節は流行し「3演芸」として称されました。
しかし、浪花節は他の2つの話芸芸能と違い急速に衰えてしましました。
現代では浪花節は衰退の道を進んでいますが、完全には途絶えてはおらず、現存している状況にあります。
現在は講談と同じく女性の進出が進み男性の浪曲師は入門者が少ない現状となっております。
奇術
「奇術」は奈良時代から続く散楽の流れを組む大道芸で、狂言や能と同じ源流を持つ長い歴史を持つ芸能になります。
大道芸として発展し、戦国時代には芸として完成したと言われています。
奇術は現代で言う手品師(マジシャン)の原点になり、江戸時代においてはお座敷などで演じられていました。1997年に出版された日本最古の奇術書「神仙戯術」は当時の奇術を今に伝えています。
また奇術書から当時の日本人は奇術をエンターテイメントとして楽しんでいたことが記述されています。
奇術の技術は歌舞伎や浄瑠璃、からくり人形にも応用され、文化の発展に大きな影響を与えました。
萬歳
「萬歳(まんざい)」は現代の「漫才」の元となった芸能です。新年の言祝ぎの話芸として全国で興り、発展していきました。萬歳は太夫と才蔵の二人一組が基本の形で、披露する場所によっては3人以上であることもありました。
萬歳の起源は奈良時代の「踏歌」が発祥ではないかという説が有力になっています。雅楽の演目にある「千秋楽」とともに「萬歳楽」という曲が当時伝えられて、そこから「萬歳」という呼び方になったとも言われています。神の依代として門出に立ち祝いの言葉をかける民俗信仰も由来であるという説もあります。
現在の漫才の元になったのは娯楽性を高めた「尾張萬歳」で、姿形は変わりましたが名残となる名前は残り、演じられています。
本来の意味に近い「大和萬歳」は継承がなく第二次大戦後に途絶えてしましました。現在演じられている萬歳は継承者を探し出して復興させたものになります。
俄
「俄(にわか)」とは、江戸時代から明治時代にかけて、宴席や路上などで行われた即興の芝居を指します。正式名称は「俄狂言」となります。また、仁輪加、仁和歌、二和加などとも書きます。またの名を茶番(ちゃばん)といい「茶番劇」の由来となっています。
俄は現代で言う「コント」の原点に近いもので、即興で演じる滑稽な劇になります。各地で俄は演じられ、冠に地域名を置くことが多いです。
大阪俄は特に現代への影響が大きく、お笑い芸人の源流とも言われています。
梯子乗り
「梯子乗り」はまっすぐに立てた梯子の上で曲芸をする芸能になります。
現代でも演じられることがある芸能で、主に消防士や消防団員が披露することが多いです。また鳶職の組合が正月に披露することもあります。
江戸時代の火消しは鳶職人が中心であったため、そのトレーニングとして行っていたものが芸能になったとも言われています。
太神楽
「太神楽」は神楽を原点とする総合芸能を指します。寄席芸能として江戸時代末期に大衆から広く支持され人気を集めました。獅子舞を始めとした「舞」や傘回しを始めとした「曲芸」があります。
歴史は古く、日本古来の宗教である神道の催事で演じられた舞楽より生まれ、太神楽としては江戸時代において大成されました。
特に「獅子舞」が最も有名な太神楽で、全国各地に獅子舞を舞う風習があります。元々は神事芸能であったが寄席の出現により舞台芸能として変化を遂げ、現在の形になりました。
現在も太神楽は寄席で演じられています。また、伊勢大神楽のように大道での芸を続けるものもあります。
芸道
「芸道」とは芸能・技芸を日本独自の形で体系化したもの全体の総称となります。
芸道の範囲は広く日本武術に始まり、江戸期の公家家職に由来する有職故実・礼式や能楽、歌舞伎、人形浄瑠璃などの芸能、邦楽、茶道、華道、香道、書道、盆庭、歌道、煎茶道などをはじめとして、伝統工芸的な手工業、古典園芸など技術を伝承する分野においてこうした概念が見られます。
家元制度や踏襲制度は芸道ならではの制度で、宗家や分家の考え方や身分制度など日本の文化の中で形成された思想が反映されています。
芸道という概念は技術的な視点のみではなく哲学的背景や、日常生活における思想に基づいた行動、修行における精神性など様々な視点から形成されています。
また、日本の美意識も深く根付いた思想でもあります。
茶道
「茶道」とは湯を沸かし、茶を点て、茶を振る舞う行為を指します。また、それを基本とした様式と哲学でもあります。元来、茶道ではなく「茶湯(ちゃとう)」「茶の湯」と言われていました。
茶の知識は平安時代には日本にあったが現在の茶道のような盛り上がりは見せませんでした。茶道はただ「茶を飲む」のではなく、亭主と客との精神交流を重視する茶会のあり方を重要視した芸道になります。
茶道は芸術的観点が強く、茶道具やおもてなしする菓子、茶器、茶室に禅の精神性を宿し、日本人の美意識の1つである「侘び」を重要視した芸道でもあります。
茶道は様々な流派があり、流派ごとに様式に違いがあります。代表的な流派には「珠光流」「利休流」「藪内流」「宗和流」「表千家」「裏千家」「武者小路千家」などがあります。
香道
「香道」とは沈水香木と言われる東南アジアでのみ産出される天然香木の香りを鑑賞する芸道になります。香道という言葉はアジア圏内で使用されていることが現代では多々ありますが、香道という概念は日本独自の文化となります。
香道は禅の精神を重要視した芸道で「礼儀作法」「立ち振舞」に対する約束事が多い特徴があります。また、高い教養力が求められ、古典文学や書道の素養も求められます。
香道は香りを楽しむことが重要で、香りを「聞く」ことがポイントになります。香木の香りを聞き鑑賞する「門香」と香りを聞き分ける「組香」の2つが主な香道の要素になります。
香道の歴史は古く飛鳥時代に渡来した香木から生まれました。平安時代には香りを鑑賞するようになり、香りは楽しむものとして広まっていきました。そして、鎌倉時代に禅の精神と結びついて香道が室町時代に誕生しました。
室町時代は能楽、茶道、華道と多くの芸道が生まれた時期になります。
室町時代から一度も途切れずに香道を現在に継承してきた「志野流」や香道の名家「御家流」「米川流」など多くの流派があります。
華道
「華道」は室町時代に成立した植物のみや、植物を主にその他様々な材料を組み合わせて構成し、鑑賞する芸道です。「生け花」とも呼ばれています。華道という言葉は生け花と比べると求道的意味合いが強調されています。
華道は日本発祥の芸術ですが、現在は国際的に広まっている芸術となっています。様々な流派があり、流派ごとに様式・技法が異なります。
華道の起源は古代にまでさかのぼります。アニミズムの流れとして植物を立てて神を招くという行為があったと考えられています。植物の神秘性や信仰から発展したとも言われています。
華道もまた多くの流派によって様々な精神性を宿しています。代表的な流派として「池坊」「嵯峨御流」「草月流」などがあります。
書道
「書道」は書くことで文字の美しさを表そうとする東洋の造形芸術であり、芸道になります。
書道の歴史は古く、文字の誕生、そして墨の誕生までさかのぼります。また中国の歴史にも深く関連するため現存する芸道の中で最も長い歴史を持つものの1つである可能性が高いです。
日本の書道史には「三筆」「三跡」「書の三聖」など歴史的に名を残す書家がいます。特に空海・嵯峨天皇・橘逸勢は日本書道史史上最も優れた書家として「三筆」と呼ばれ称えられています。
書道に関する理論をまとめた「書論書」と呼ばれる書籍もあり、書道は長い歴史の中で体系化された技術や様式、思想、哲学、精神性が体系的にまとめられ造形芸術として発展をしてきました。
現在でも教育の一環で書道は導入されており、多くの日本人が一度は書道を嗜んだことがあります。
書道は最も広く世間に浸透した芸道の1つとなりました。 一般的ではありませんが書道にも流派が存在しています。
最古の流派として「世尊寺流」や藤原忠通を祖とする「法性流」などがありましたが、現在では多くの流派は途絶えてしましました。
継承が確認できる流派で古いものとして皇族によって継承されている「有栖川流」があります。
流派は途絶えてしまいましたが流派の技術は現代に継承され、書道に関しては専門学校や研究機関などが発達し、現在も進化をし続けています。
■まとめ:幅広く深い日本の伝統芸能の世界
日本の伝統芸能を全て網羅することは難しく、民俗芸能や各芸能の派生や流派別、技術別、年代別で見ると多岐にわたります。また、伝承されずに途絶えた芸能も多くあり、現在伝承されているものも後継者不足によって途絶える手前となっているものもあります。
また、伝統の冠がつくものとして「伝統工芸」や「伝統技術」「伝統建築」「伝統芸術」など多くの分野で「伝統的な技能」は伝承されています。
今回 「芸能」領域に特化し「工芸」「技術」「美術」は除外しましたが、日本の伝統文化は広く深い分野になります。
伝統には日本人の美意識や思想、哲学、精神性を強く反映したものも多く、伝統を学ぶことで日本人としての忘れかけていた誇りやアイデンティティを知ることができます。
そして、日本を知ることで新しい創造にも繋がります。
日本を知ることで新しい価値を生み出すことができると思っています。そして、それが伝統芸能の抱えている多くの問題を解決する糸口になると信じております。
日本の文化や日本人の感性、美意識、そして芸能に興味を持つきっかけになれば幸いです。
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